こんにちは、ネルソン水嶋です。いきなりですが、約6年住んだ鹿児島県の離島・沖永良部島を離れます。そして今年、2026年の6月から東京で暮らします。大阪で生まれ育ち、新卒で東京へ行き、そこからベトナムへ渡り、ルーツのある沖永良部島へ移住し、そして今回また東京へ。拠点はこれが5回目になります。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2026/04/12
こんにちは、ネルソン水嶋です。いきなりですが、約6年住んだ鹿児島県の離島・沖永良部島を離れます。そして今年、2026年の6月から東京で暮らします。大阪で生まれ育ち、新卒で東京へ行き、そこからベトナムへ渡り、ルーツのある沖永良部島へ移住し、そして今回また東京へ。拠点はこれが5回目になります。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2026/04/12
こんにちは、ネルソン水嶋です。
いきなりですが、約6年住んだ鹿児島県の離島・沖永良部島を離れます。
そして今年、2026年の6月から東京で暮らします。
大阪で生まれ育ち、新卒で東京へ行き、そこからベトナムへ渡り、ルーツのある沖永良部島へ移住し、そして今回また東京へ。拠点はこれが5回目になります。なんだか、初めてプレイしたRPGの「ドラクエ4」でいうところの第5章みたいだなと、自分で思った。今までそれぞれの土地で出会った友人たちが一番多く住んでいるのが東京なので、最終回というか、最終章のような気持ちでいます。今はね。
さて、なぜ今さら長年放置していたこの『べとまる』でこんな報告を書こうと思ったのか。
これまで自分は、無意識のうちも含めて、「そのときいる場所」を自分の属性(肩書き)にしてきた気がします。東京生活の後半で、Twitterで大喜利をやっていた頃は「高円寺のネルソン」、ベトナムに渡ってからは「べとまる(ベトナム)のネルソン水嶋」、そして沖永良部島へ行ってからは「沖永良部のネルソン」。「言ってねぇよ」というつっこみもあるかもですが、そこはまぁまぁまぁ。あくまで自認であり、自分に対して、あえてそういった分かりやすい椅子を用意してきたところがありました。ベトナムも沖永良部島も、外から見れば尖った属性だから、そう見られがちということもあったでしょうけど。
だからこそ、ベトナムを離れたと同時に『べとまる』の更新も滞ってしまったのだと思います。もちろん、ライターなどの仕事が増えていったというのもあるけど、実質的にはまだベトナムに住んでいた2015年くらいから10年以上、本腰を入れて更新していなかったという自覚があります。
沖永良部島にいる間、「ベトナムにいることとは関係なく、更新してもいいんじゃないか?」と何度も考えました。でも、どこかで「沖永良部島に住んでいるのに」という心のしこりがブレーキになってしまって、ついぞ本腰を入れて書くことはありませんでした。今思えば、ベトナムでダチョウに乗ったり、ドリアンの皮を装備したりできたのは、あの時自分が「何者でもない無敵の人」だったからかもしれません。人生とは、厚みが増せば増すほど、身動きが取りづらくなるものなのでしょうか。
それが、久々に報告で記事を書こうと思った核心です。島を離れて東京へ行くことになりますが、東京はごっちゃごちゃしすぎて、なかなか「東京の●●さん」とはならないと思います。全く以てレアな選択肢ではない。つまりもう、尖らない場所に行く。だからこそ、何の環境にも邪魔されずに書けると思ったんです。自分の考え方ひとつなのは分かってはいるけど、これが自分にとっての「テコ」だった。
あと、「14年前に立ち上げたこの『べとまる』をどうにかしないとな」と。何度も何度も畳もうと考えたんですが、友人に相談すると意外と止められることが多くて、ついぞ今日まで踏みとどまってきました。だからこそ今この文章を書けているので、よかったのかもしれません。元々は、当初記事のタイトルにしていた「ベトナムで〇〇する方法」を略したブログ名だったけど、これからはベトナムも沖永良部も関係なく、どこにいても「ネルソン水嶋の人生の記録」、文字通りウェブ上のライフログ(略してブログ)として更新していこうと決めました。名前は変えない。めんどいし、特別意味もないから。
それにしても、ベトナムにトータル8年余り(タイにも7ヶ月)いて、沖永良部島にほぼ6年いて、なぜ今から…いや、今さら?東京へ行くのか。戻るのか。その背景はちょっと複雑で、この記事1本で書き切れるか分からないけれど(追記:書けました)、第5章に向かう前に、一度ここで、自分の42年間の人生をまるっと振り返ってみるのもいいんじゃないかと思いました。
実は、ベトナムを離れるときにも「6年3ヶ月のベトナム生活」を振り返る記事を書いたことがあります。余談ですが、自分はどうやら「6年」をひとつの区切りとして見る傾向があるみたいです(東京のSE時代は5年ちょっとでしたが)。以前書いたその記事と、今の自分が振り返る内容。きっと価値観も変わっているはずだから、書き上がったらAIに比較させるのも面白いかもしれませんね。いいね、それ、やろう。
そんなわけで、42歳になった自分が、改めてこれまでの42年間を振り返ります。
長いです。でも、最後まで読んでくれたら嬉しいです。
ちなみにベトナムを離れるときに書いた記事はこれ。
目次
大阪で生まれたのは1984年2月14日。ちょうどバレンタインデー生まれなので、誕生日トークではひと盛り上がりできる星の下に生まれました。
両親は共働きで、父はデザイン会社を経営、母はその経理。両親は家を留守にすることが多かったけど、二つ違いの兄と妹がいて3人は仲が良く、家の中でずっと遊んでいました(週末は親の会社で遊んでいた)。大きなマンションでご近所付き合いもあったので、急によその家ののおもちゃをもらうこともあり、その象徴が黒い四角いバケツ一杯にごちゃまぜに入っていたレゴブロック。毎度違うものができて、それはそれで面白かった。人形やぬいぐるみに細かな設定をつけて世界観を膨らませたり、兄が遊びのルールやキャラクターを考えて弟と妹がそれに乗っかったりと、それだけで豊かな時間を過ごせた。今、3人兄妹全員がクリエイター系の仕事をしていることを思えば、自分の人生の土台は幼稚園に上がるか上がらないかの頃には決定づけられていたんだと思います。キーパーソンは間違いなく兄だった。
ただ、3人で遊んだのは2~3年。というのも、兄が私学進学を目指して塾通いになり、楽しい遊びの時間は自分が小学2~3年生の時にパタリと終わりました。それから近所の同級生と遊ぶようになったものの、サッカー少年だった友人の前で私がおもむろに空想遊び(彼からすればもはやままごと)を始めようとしたらドン引きされ、二度と遊んでもらえなかったという悲しいエピソードもあります。そのあと、彼とは唯一大学まで同じ学校に行くという、幼馴染になってもおかしない環境でしたが、一度もプライベートで遊ぶことがなかったのは互いにあの時間がトラウマになっていたのかもしれません(苦笑)。
足が速ければヒーローになれる小学生時代において、空想遊びが好きで、なおかつ運動音痴の食いしん坊で肥満児の自分。いわゆる「陰キャ」でした(本質的には今もそうだけど案外そう思われない)。そのピークは小学4年生の時。猛烈ないじめに遭い、机に彫刻刀で悪口を書かれたり、朝のホームルーム前からボコボコにされたり。そのせいでますます暗くなり、小学校にはあまり良い記憶がありません。ただ、当時から、図画工作の時間だけはちょっとだけ注目を集めました。全教科でそれだけが成績が常に5で、とにかく考えることを形にするのが好きだったんです。兄妹みんな、図工の成績は頭一つ抜けていた。
中学生になっても空想遊びが好きなのは変わらず、気がつけば、机の上で筆箱や消しゴムを並べて頭の中でRPGや対戦ゲームが始まっていました。今でも何も「考えない」でぼーっと過ごすことが苦手なのですが、そんな子供時代だったから、慣れないのかもしれません。瞑想しんどい。頭が暇。当時は、ファミコンからプレステへと続く、いわゆるテレビゲーム黄金期で、同世代の友人たちがそうであるように、任天堂やらエニックスやらスクウェアやらにお世話になり倒した少年時代でした。そんな自分が最初に抱く将来の夢は「ゲームプランナー」であったことも、自然な成り行きだったかもしれません。
一方で、中学入学当初には、肥満児で根暗でいじめられっ子だった自分を変えたいという思いもあり、「剣道部に入ろう」と思っていました(『るろうに剣心』の影響か?)。しかし、入学早々の家庭訪問で、担任から親の前で「お前は太ってるから柔道部だろ」と平成一桁な助言を受け、自己主張というか、自分で考えるということができなかった自分は、「そんなもんか」と思って柔道部へ。ただ、体験入部に行こうとしたものの、一人で知らないところに飛び込むという体験が怖すぎて、柔道場の敷居を跨げず。
入部日は、各部で教室が割り当てられ、希望者はそこに集まるというシステムだったんですが、体験入部に行かなかった自分は、先輩や同級生たち全員から「お前誰!?」みたいな反応でざわつかれたことをいまだによく覚えています。「怖くて行けなかった」とは言えないし。あれは恥ずかしかった…。
その柔道部は、大阪でも強豪の方で、ろくに運動すらしたことのない自分はそら恐ろしい地獄の日々。それまで生きてきた12年分の運動を3年でやった!とくに1年生の頃は「練習が厳しすぎて泣く」ということを何度もかまして先輩を困らせていましたが、嫌々ながらも練習を続けた結果、半年で肥満を脱出。祖母(新潟にいる父方の方)と会ったときに、「…誰?」と驚かれたのが地味にうれしかった。あの時、柔道部に入っていなければ、また違った人生を歩んでいたでしょう。どちらかといえば悪い方に。
柔道部の部員にはお笑いの波長が合う友人もいて、当時深夜にテレビでやっていた『吉本超合金』などを通じて、自分の笑いの感覚が育まれていったのもこの頃です。それはもしかしたら、後に始めるブログにもつながってくるのかもしれません。余談ですが、FUJIWARAがYouTubeを始めるときに吉本超合キーンと過去の人気番組名をもじったのを知って、「時代だなぁ~」と思いました。
高校は実家から一番近く、学力もちょうどよかったところへ進学しました。高校1年の終わり、2年で理系と文系のどちらに進むのか選択した上で進路相談を行うのですが、担任に「ゲームプランナーになりたい」と伝えると、「それは企画職だから理系じゃなくて文系だろ」とツッコまれました。でもすでに理系を選ぶと決めていたし、周り(の大人たち)から「理系は就職に有利」と言われていたので、波風を立てたくなくてそのまま理系へ。ここでまた、自分の意志で決められないという性格(ダメさ)が発揮されます。しかし、この頃からゲームへの熱も冷め始めていたということも一因だったのかもしれません。そうして自分の頭の中から、ゲームプランナーという夢はうっすらと消失していきました。
これは余談ですが(余談多めですがこれからも多いです)、高校時代、中学の友人といっしょに、「フロムA」だか「an」だかで見つけた、ヒーローショーのバイトを1年半ほどやっていました。初回は、年末に神戸のホテルで、夜に開催される舞台告知のため、ゴジラみたいな最重量の怪獣の着ぐるみに入ってホテルを練り歩く仕事でした。以降は基本、ステージで殺陣(たて)をやる。全身タイツを着て顔が出ていないとはいえ、人前に出るのは拷問のように辛かったけど、「辞める気も続ける気もないから、まあやるか」という究極のマイペースぶり(というより意志がない)を発揮していました。
そんなバイトの話を高校の同級生にしていると、高校生らしかぬエピソードがウケて、「基本的に大人しいけどヒーローショーのバイトやってるヘンなやつ」というキャラクターが、すっごい地味に出来ていった気がします。そんなでも注目が妙に嬉しかったのは、元いじめられっこの性(さが)でしょうか。また当時、色々な経緯はあるんですが、メル友が男女40人くらいいました。と言って、「メル友って何ぞ」と思われるかもしれませんが、文通相手のメール版ですね。顔も、何なら本当の名前も知らないかもしれない相手とメールをやりとりする。もちろんガラケーの時代なので、「へ」は「は」を4回打たないといけないし、今思えば面倒。この頃に「文章書くって楽しいな」という感覚が育まれていきました。そこで知り合ったメル友から教えてもらった流れでメールマガジンを始めることになり、「大体週に1回、不特定多数に向けて長文を送って笑いを取る」という謎タスクが自分の中に組み込まれていきました。
そして高校3年の時、運命の出会いが。ウッチャンナンチャンがMCをやっていたテレビ番組で、「CMプランナー」という職業を知ったのです。ゲームプランナーへの情熱は冷めていたけど、それにワクワクしたっていうことは、自分はやっぱり何かを「プランニング(企画・立案)」したかったのだと思います。これだ!と、CMプランナーへの夢がむくむくと膨らんでいきました。
結局、大学はそのまま理系の情報科学部へ。入学式で学長が「ゲームやアニメを作りたくて来る生徒も多いが、ここはそういう場所ではない」とピシャリと言い放ち、「なんてこと言うねん」と思いつつ、すでに夢が変わっていた自分はどこか他人事でした。むしろ、思いっきり理系の大学を選んでしまったけれど、ここからどう夢に向かって路線変更ができるかということで頭が一杯だった。思えば、この頃から、明確に自分の意志を持つようになっていったと思う。
時同じくして、大学3年の兄から、サークル仲間が通っているということで、『電通クリエーティブ塾』という、広告会社の電通が大学生3年と大学院1年向けにやっている、選ばれし学生だけが格安で受けられる広告塾の話を教えてもらいました。成績がよければ、そのまま電通のクリエイターへ直行の内々定が出るといいます。「これ以上、夢のある話があるか!」と絶対に行くと決意。しかし、それはまだ2年後の話で、今だとどうしようもない。当時はADSL通信によるインターネットが普及し始めた時期で、父の会社のパソコンを使っていくらでも調べ物はできた。すると、広告業界誌の宣伝会議が主催する「コピーライター養成講座」なる講座を発見。まずはここ行こう。学費15万円を親に頼むも、当然大反対。当時は「え、なんでや」くらいに思っていたが、理系の私立大学に通わせた直後で、まったく違う道に行きたいと言い出すなんて、そりゃあ黙ってはいられなかっただろう。それが分かるって私も大人になったね…いや当然よ。
そんな自分の最終手段のカードが、実は今いる沖永良部島…の、祖父母だった。花農家をやっていた祖父母の収穫を手伝いに行き、バイト代(という名の祖父母からの多大なる援助だったと後に知る。3年くらい前に祖母とケンカしたときにいきなり言われたしずるい)をもらって学費を捻出しました。
そんな講座に入った直後、自分の力量不足をとことん思い知ることになる。高校生の頃にメールマガジンを配信していたのはすでに書いた通りですが、多い時で400人以上の読者がいて、読者にチヤホヤされていた自分は、文章力においてはちょっと調子づいておりました。しかし、提出した課題に対して講師からの理路整然としてぐぅの音も出ないフィードバックでボコボコにされ、「あ、俺って大して面白くなかったんだ」と痛感。あの若さでクリエイティブの鼻っ柱を折られたのは本当に良かったと思います。
講座修了後、ちょっとした燃え尽き症候群的な期間を挟んで、念願の電通クリエーティブ塾には見事合格し、「電通クリエイター予備軍大学生」になれた。しかし結論から言うと、電通の採用試験にはエントリーすらしていない。当時の自分は、就職活動も含めて、計画通り動くことができず、そのあとも、広告業界をズルズル受けたものの全滅。最終的に大学の推薦にすがり、皮肉なことに「理系は就職に有利」という言葉通り、システムエンジニア(SE)としてすんなり内定をもらい、上京が決まったのでした。
2006年、東京での生活がスタートしました。
しかし、SEとしての仕事は端的に言って地獄でした。そもそも数字が苦手であったし、システムというのは決まったルールの中で動くもの。そうした仕事そのものが肌に合わない。予想を裏切って人を驚かせる物作りが好きだった自分にとって、SEの日々は苦痛でしかなく、休日は辛くて動けなかった。「ちょっとでも休日らしいことをしないと」と思って、ようやく街に出た頃には15時を回っていて、『これなら家でゆっくりした方がよかったんじゃないか』と考えて自己嫌悪になった。もがいていたんだろうと思う。友人の前で、「仕事が楽しくない、仕事ができない」とめそめそと泣いたこともありました。
そんな暗黒期、自分にとっての一縷の希望だった存在がありました。『面白法人カヤック』という名の会社です。詳細は省くけど、2000年代にITやウェブコンテンツに触れていた人なら、聞いたことがある人も多いと思う。あんな変な、面白い会社なら、自分の居場所があるかもしれないと憧れました。そうして人材募集につなげる秀逸なブランド戦略だったと思いますが、私は「カヤックに入るためには自分も面白くならなきゃ」と、カヤックにとってはありがた迷惑?な謎の方向へ走り、始めたのがTwitterでの大喜利です。まだ黎明期だった頃のTwitterで大喜利のお題を募集して、回答に対して自分がつっこんでいくというのは、当時は新鮮だったらしい。ネットニュースにも取り上げられて、うだつの上がらない東京暗黒SEの日々を過ごしていた自分にとって心のオアシスになっていった。そうしてTwitter越しに見知らぬ人たちとやり取りする中で、発想力やツッコミの回転力、そして「コミュニティを作る力」が無意識に養われたと思う。また、やはり首都圏に住んでいる人が多かったので、実際にリアルで集まって、ともに花見をしたこともあった。ここでの出会いの中から、今でも付き合いのある友人たちが出てくる。人に限らず、このときに培ったものが後々、財産として自分を助けてくれることにつながっていると思う。
しかし、社会人5年目の冬、満を持して応募したカヤックの最終面接で、見事に落ちます。目の前が真っ暗に。選考が進むにつれて、憧れていた会社からもらう「内定」の先に、勝手な夢を膨らませていた。その翌月に東日本大震災が起き、自分の生活なんてどうでもいいように感じてしまって、次のあてもないまま会社を退職。西新宿のオフィスを出た日に見上げた、やたらと快晴だった空をよく覚えています。
無職になり、同期から言われた「時間ができるのなら、海外にでも行って来たら」という言葉が妙に頭の中に残っていたので、人生初の海外旅行へ行くことに。中国、台湾、タイ、ヨーロッパなどを巡る旅。行く先々で、Twitterやブログなどオンラインで仲良くなった知人たちを頼ることにした。今でこそ当たり前だとは思うけど、こうしたオンラインとリアル、もう一つ言えば国や文化を気にしない人付き合いの節操のなさは、自分の個性の一つだったのかもしれない。そして、出発前にカヤックのアイデア募集サービス『元気玉』に「転職に繋がる海外旅行のアイデアをください」と投稿していたところ、それを見たベトナムのIT企業に勤める日本人からTwitterで「うちのオフィスに遊びに来ませんか?」と連絡があった。
タイで完全な食あたりにあって、回復して間もない状態でこぎつけたベトナム。ホーチミンでフォーを食べながら「ここで働いてみる気はないですか?新規事業を任せたい」とスカウトされた。職種がクリエイターというわけではなかったが、異国の地で新規事業をやるなんて、まさにクリエイティブな人生じゃないか!と、二つ返事で快諾し、ベトナムへ渡りました。この頃から、ようやく暗黒期を抜け始めます。
颯爽とベトナムへ渡ったものの、わずか4ヶ月で退職します。
新規事業という話はなく、日常業務に追われ、「これなら大人しく日本で働いていた方がマシだった」と思った瞬間、「あ、辞めよ。一刻も早く辞めなければ」と、退職を決意。そして同時に気づいたのです。自分はまた、『誰かにクリエイターにしてもらおう』としていたんだと。広告業界やカヤック、そしてこのベトナムでの就職という選択、どれもこれも、常に誰かにすがっていた。そこに気づいた途端に、自分への嫌悪感でいっぱいになり、そこから逃れるためには自らの足で一歩を踏み出すしかなかったのです。
よく聞かれることなんですが、日本に帰るという選択肢は全くなかった。このまま日本に帰っても何も残らない。そんなことをしたら、本当に絶望して死んでしまう気がした。そこで、「面白いことは自分でやるしかない!」と一念発起して、2012年5月に立ち上げたのが、このブログ『べとまる』でした。
ここからの日々は、まさに青春でした。すべて自分の責任で企画を考え、実行し、記事にする。「ベトナムでダチョウに乗る」「マクドナルド1号店にドナルドの格好で行く」「ドリアンの皮を装備する」。自分が純粋に「人を驚かせたい」と思ってやったことが、見事にハマりました。『デイリーポータルZ』の新人賞などの賞レースで連続受賞し、それを機にライターとして独立。30歳にしてようやく、自分の力で「クリエイター」としての一歩を踏み出せたのです。ようやく、自分で自分を認められた瞬間でした。
ただ、皮肉なことに、ライターや編集者としての仕事が忙しくなるにつれ、仕事ではなく趣味の範疇から抜けきれなかったブログ『べとまる』からは徐々に遠ざかっていきました。ブログが成功したからこそ、ライターとしてメシを食えるようになっていった末に、ブログを書かなくなってしまったのです。
ベトナムでの生活も長くなり、編集の仕事もあり、ネットとパソコンさえあればどこでも働ける、いわゆる「ノマド」になっていたこの頃。ベトナムに居続けるなら会社設立を目指すか、そうでなければ違う国に行って見聞を広めるか、悩んだ末にタイ・バンコクへ拠点を移すなど生き方を模索していた。そんなときに日本では、「ベトナム人技能実習生の失踪」が社会問題になっていました。ネットを通して入ってくるニュースに、ベトナムに縁のある日本人としてモヤモヤしていたある日、「実習生が逃げていく島」という記事を目にします。その島は何を隠そう、沖永良部島のことでした。
衝撃でした。自分が散々お世話になり、ライターとして育ててもらったベトナム。その国から日本に働きに渡っている人たちが、母の故郷であり、自身のルーツでもある沖永良部島で失踪している。背景が分からないが、「自分にできることはないか?」と思い始めていた。時を同じくして、ベトナムで知り合った友人の先輩で、自分と同じく島にルーツを持つ2世の方が移住したと聞いた。当時は沖永良部島はお年寄りしかいないド田舎だと思っていた自分は、「沖永良部島に移住って、狂気の沙汰?」と意味不明。今思えばとんだ誤りですが、幼少期は祖父母の生活圏からまず出ることがないので、「お年寄りばかり」というイメージは当たり前のことですね。いずれにせよ、なんで?どうして?が止まらない自分は、直接会いに行ってみることに。その方(今はふつうに友人ですが)は、当時はご自宅でカフェもしていて、お手製のバインミーを食べながら、お喋りしてたら意気投合。そうして自分が島に滞在中に、「会うといいよ」という島の人たちを紹介してもらい、そのうちの一人が主催する実習生と日本人の交流会にも参加させてもらい、あれよあれよと話が進んでいく展開に、運命めいたものを感じていました。
その後、大阪の実家に戻ったタイミングでコロナ禍が本格化。ベトナムに戻る道も閉ざされ、3か月のモラトリアムを経て、数ヶ月前に沖永良部島で知り合った人物から、たまたま半年間ほどの情報発信の仕事をもらったこともあり、「どうせ行くあてもないなら、今行ってしまおう」と、2020年7月、沖永良部島に移住しました。
沖永良部島での6年間を総括すると、「めちゃくちゃ勉強になった」の一言に尽きます。
言わずもがな、初めての田舎暮らし。沖永良部島は11,000人以上で、全国の有人離島の中でもかなり大きな方だけど、42の集落(字)があってそれぞれに地域コミュニティが存在している。そこには、良くも悪くも「大きな家族」のような濃密な人間関係がありました。お裾分けが飛び交う贈与経済や、離島特有のインフラを握る人が上位にいるという見えないヒエラルキー。日本中にある「田舎の縮図」を肌で学べたことは大きな収穫でした。大阪の都会で育った自分には、田舎が珍しいように感じるけど、どうあったってこの世に生まれた順序は田舎が先です。これが人間が集まって生きていく上で、自然に形成される社会なんだと。そんな「人間社会の本質」を五感で知ることができたのは一生の宝になる経験でした。
思い返すたびに頬がゆるむようなこともあれば、思い返すたびに腹が立ってくることも、どちらも体験しました。良い、悪い、ではなく、それが田舎やその地域の性質です。私は、「島って素晴らしい」とは言えません。ただ、もちろん、「都会って素晴らしい」とも言えません。なんだって、バランスがあり、これだけあらゆる技術が進んだ現代において、人は住むところも含めて人間同士の距離感を選ぶことができます。隣人の顔も名前も知らない暮らしも、集落でしばしば集まる暮らしも。人も変化するし、家族だとさらに複雑になるけど、「誰もが自身が健やかで過ごせる環境を目指すべきだ」と、私はそう思っています。また、ルーツのある島だからこそ、住んでいる人もやってくる人も含めて、たくさんの「親戚」と初対面を果たしました。
ベトナム人技能実習生の話はどうだったかというと、これはだいぶ空回りをしたと思います。ベトナムという国に思い入れがあっただけに、借金(融資)をしてまで作ったTシャツがさして売れないなど、今でも回復しきれていないダメージを追うことにもなりました。「補助金のために起業するものではない」と、大半の人に伝わらないメッセージを今自戒を込めて書いておきます。そうして、うまくいかないとちょうど参っていたとき。信頼していた人から、「何もやってないように見える」と言われてしまった。そこからですかね、意識しようがしまいが、自己犠牲をしたところで、誰の役にも立たないんだと。そもそも、その言葉に悔しくなるならまず動機が歪んでいる。なら、全部やめてしまおうと。
自分は聖人にはなれないし、生活だって考えないといけない。実際、このまま自己犠牲を続けたら、いつの日か本当に死んでしまうかもしれない。実際、そんな想像は何度もしてしまっている。そう気づいて、仕事として、いや、お金にはなっていないのであえて書けば「本業として」かもしれませんが、いわゆる多文化共生(外国人支援)から完全に手を引くことにしました。あくまで目や手の届く範囲で「友人として」付き合う。無理はしないし、マイペースを守る。そう決めてからは、随分と気が楽になりました。もしかすると、その頃自分は中途半端に見えたかもしれないけど、自分の命と健康を守るためでした。その中で、町と連携して、外国人向けの生活情報冊子を作ることができたのはよかったなと思います。今でも和泊町の町民支援課に設置されているのを見たので、ひっそりと誰かの役に立ち続けることを願います。
その頃、業務委託として『NPO法人離島経済新聞社』の編集部に入り、久々に組織の一員として働くことになりました。コミュニケーションの多い組織だったので、ここでロジカルシンキングや資料作り、プロジェクト進行などを覚え、それまでに比べて働き方のレベルが格段に上がったと感じています。また、自分が暮らす沖永良部島だけではない、全国の離島を俯瞰して見ることを通して、沖永良部島の強みや弱みなどを知ることもできました。この視点はリトケイに所属する、ならではのものだったでしょう。
それから、『奄美群島南三島経済新聞』や『琉球新報』の記者(後者は通信員)や、NHKの通信員(正しい呼称は「通報員」)として、島中を駆け回りました。奄美群島南島三島経済新聞は、いまだに有償の仕事だと思われていることが多いのですが、ボランティア活動です。我ながら5年間も200本以上も記事を書いているのは、狂気の沙汰なんじゃないかと思う。6月以降はそうもいかないので、今一人ひとり声がけしていっています。「何もやってないように…」と言われてめっちゃムカついたのは、このこともあったのかもしれないな。でも、ボランティアでやっているから評価してくれっていうのも、微妙かもね。
とはいえ、少なくとも、島での取材経験を通して、あらゆる年代や属性の人から話を聞く、コミュニケーション面における筋肉はかなりバキバキに鍛えられたと思います。人は歳を重ねれば重ねるほど、会話においてチューニングを求められる機会から離れていくんじゃないかと思うので、これはかけがえのない財産になるだろう。どんな世代でも喋りやすいじじいを目指したいものですね。そういう方、いるもんね。
一方で、島にはライターや編集者がほとんどいなくて、仕事の話ができる仲間がいない「孤独」は常にあったというのが正直なところです。それは東京において楽しみなところではある。でも、その分、島では人が少ないからこそ、「こういうことができそうだ」と見られると、すぐにたくさんお鉢が回って来ます。海外経験やライター・編集者、また多文化共生(外国人生活支援)などの文脈で、何かと人前で喋る機会はあり(報酬があるとは限らないが)、とくに最後の年である2026年に至っては、島で一番大きいであろう文化ホール「あしびの郷」で、国指定史跡のイベントの、トークセッションのコーディネートとファシリテートを任せてもらえました。個人的に反省点は多いけど、色んな人から高評価をいただいていたので、「自己評価のわりには、けっこうできているのでは…」という今後の自信にもつながりました。
もともと緊張しいの自分でも、これだけ場数を踏めば、わりと気にしなくなっていく。なぜなら毎度毎度緊張して、もう疲れたくないから。これは、ベトナムにいても、東京にいても、イベントが仕事にでもならない限りは起こらなかった現象ではないかな。仕事じゃなくても出番が回ってくるからこそ、場数が踏める。場数が踏めたら、自信がついて本当に仕事になっていく…。何ででしょうね。西郷隆盛さんだって、沖永良部島に流刑にあって、「敬天愛人」という考えにたどり着いたというじゃないですか。そして鹿児島県出身で元日本航空会長も務めた経営者・稲盛和夫さんもその言葉と西郷さんを敬愛している。
思うに、島だから強くなれた。人との距離感や、人一人が担う役割の大きさや、不足を補う知恵や工夫など、人間関係が濃密で物質的に厳しい環境が、人を育てるのだと思う。思えば、島の中でも塩害がひどく屈指の貧困地だった国頭字(自分のルーツのある集落)は、教師や医者などを多く輩出したという。辛さが、団結力を生み、人を育てる。そういうことなんだと思う。俺は、沖永良部島で強くなった。それは胸を張って言えることです。島っ子になった自分が東京に行ってどこまでいけるのか、楽しみである。
そんな充実した(そして少し孤独な)島生活を送っていた自分が、なぜ沖永良部島を離れるのか。
きっかけは、奄美大島にいる「ユタ(霊媒師)」でした。
なぜユタというと、テレビの仕事をしている兄が、リアルでユタに見てもらった世代である祖母からその昔話を聞かされて、「ネタになりそうだし、行ってみたい」と言ったから。数カ月後にたまたま奄美大島に行く機会があったので、知人に紹介してもらい、結果的には兄そっちのけで自分が見てもらう流れになり(二人並んだ状態で見てもらった)、しばらくやりとりをした結果、こう言われたのです。
「あんたは、民俗を遺す人。すぐに島を出て、本土に行って挑戦するべきだ」、と。
昔からスピリチュアル的なこととは距離を置いている人間です。が、発言の責任を取らない第三者から予想外の角度で放り投げられたその言葉に、自分でもハッと驚きました。でも…「島でやっている仕事がある」「祖母もいるし」とうだうだと言い訳を並べながらも、「自分は島を出たがっている…?」という本心を見つめる機会になったのです。南西諸島のユタしかり、教会の牧師さんもそうかもしれませんが、「何を話してもいい存在」は大事だなと思いました。私の知人や友人で、「島を出るべき」と言う人は一人もいないでしょうから。なぜかって、そんな責任、誰も取れやしないからです。
だからこそ、関係性を切り離し、きっかけを与えられる人が必要だと。そうやって救われる人もいるでしょう。実際に、誰であれ、人生において、今は場所を変えた方がいいタイミングというのもあると思います。自分自身に突きつけられた思ってもみなかった進路への提案に動揺しながらも、そんな感じで、どこか冷静にユタの社会的な「機能性」について考えていました。
そのあと、1週間くらい東京にいたので、毎晩のように兄とビール片手に話し込んで(そもそも兄は帰宅後に「酒飲もう」と寝ている私を叩き起こすのが恒例)、東京を離れる頃には「島を離れる」と心に決めていました。
今書いたことは「ユタに言われた」というきっかけですが、そのあと自分の頭で考えた島を出る(東京へ行く)理由は、2つあります。
1つ目は、超シンプルに「仕事での腕試しがしたい」から。ユタが言った「本土に行って挑戦するべき」という言葉は、私とのやりとりから、この気持ちを見抜いたからだと思います。とくに兄とは、昨今のAIの話をしました。詳細は書きませんが、今そこに時間を割けることが重要という話です。もちろん、それだけではありません。ベトナムでは、バカげた企画を考える脳や、飽きずに実践する足腰、それを記事で表現する手先が養われたと思いますが、島では違った角度でずいぶん鍛えられたと思います。
島での経験を通して、幅広い世代や属性への取材における口調や文脈のチューニングや、お鉢が回りやすいことによるイベントなどを任される場数(経験)、都会に比べてシンプルな社会構造ゆえの郷土史も含めた因果関係の洞察力、実に色んなスキルを体得できたと思います。自分で言うのもなんですが、「察しが良くなった」と思います。ベトナムではやりたいことをやりたいままにやってきましたが、離島などの、あえて言えば田舎ではそうはいきません。人間関係が濃密すぎて、気づくと誰かの地雷を踏んでしまいかねないからです。ベトナムは自分について、沖永良部島では他者について、掘り下げられました。
また、この島は、しまむに(方言)だったり、近代史での薩摩との関わりだったり、中世の大型古墓が多く遺されていたりと、学術的にも価値が高くかつ多いようで、日頃から様々な分野の研究者が訪れます。そんな彼らとのやりとりを通じて、目の前の事象の奥にある価値を探し、考える癖が付きました。詳しくは書きませんが、鹿児島大学の環境文化プログラムも、この6年間で取得した多文化共生マネージャーや社会教育士としての知識も、最後にいた教育委員会での郷土史講座の企画運営も、この島に来なければまずありえないキャリアパスでした。それもこれも「沖永良部島」が軸だったから叶った邂逅です。
「あのままベトナムにいれば…」という、もしもを考えることは、とくに島での前半はよくありましたが、今では、心から島に来てよかったなと思います。島であった様々な人や知識との出会いが、これからも私の人生に多くの選択肢を与えてくれることでしょう。
たま~に東京から飛んでくる仕事はきちんとやれていると思うので、そうした経験が仕事を進める力にきっちり返ってきているというのは感じます。でも、島だとそもそもその仕事がほぼ飛んでこないから。贈与経済の割合が大きなこの島では、島のインフラを握っているわけでもない、ましてや1・2次産業でもない分野でお金を稼ぐには限界がある。たとえば、「広告記事を書いてほしい」というような需要がまずないんでね。この島では、「広告」ではなく「協賛」の方が響く。動機が、商売ではなく、贈与だという、分かりやすい例ですね。お金と機会が渦巻いている東京に、島(その前はベトナム)で鍛えられたこのスキルを持ち込んだら?そこは待ってくれているクライアントもいるので、ぜひ勝負してみたいんです。職種は違うけど、「仕事ができない」と泣いていた頃から15年越しのリベンジです。
そして2つ目の理由。これが一番大事ですが、「2世・3世のコミュニティを作りたい」ということです。
このところ、自分のSNSの発信に、島にルーツを持つ2世や3世の人たちからの反応がすごく増えました。人がひとつの場所に定住して死ぬまで一生を終えることが当たり前の時代は、この日本においてはもうとうに終えていて、国外も含めて移動しながら生きています。そして自分のように、ルーツのある土地と地元が必ずしも一致しない世代が生まれている。彼らがルーツを辿りたがる気持ちは、自然な社会現象だと思う。裏返せば、生きる上で、自らを証明する「ルーツ(根)」が必要だと。SNS上でコメントや連絡をくれる同じ2世・3世の人たちとのコミュニケーションを通して、それはもう確信に変わっています。
県でいえば県人会のような、郷土に紐づく郷友会(沖永良部島では沖洲会(ちゅうしゅうかい)という組織があります)という伝統的なコミュニティはあります。そういったところでも「2世や3世が来ない」という不満というか嘆きのような声を聞いたことがあります。多くの人にとって中高を出るまで自分自身を形成した場所である出身者と、親や祖父母の出身地である二世や三世は、そもそも郷土に対する眼差しが違います。そうした違いを踏まえた上で、居心地のよさを引き上げるには、今まで通りとはいかない。
だから、同じように「幼少期の輝ける島の思い出」を持つ、2世や3世同士が繋がれる場所を作りたい。そして、彼らがもし島のルーツと深く繋がりたいと願うなら、自分がその間を繋ぐ役割になりたい。島で「来て」と手招きするのではなく、本土で「行こう」と背中を押したい。インターネットでいくらでも発信できる世の中になりましたが、だからこそ、目の前にいる人間という存在感は相対的に増していくでしょう。そういう地域と紐づく人間が、沖永良部島に限らず、奄美群島など、本土から遠く離れた地域こそ必要だと思っています。なので私は、東京で勝手に沖永良部島のフロントマンになりたいんですね。
無論、「求められているから」というだけでなく、私自身が「郷土とつながるべきだ」と考えていることもあります。べきだ、というと、語弊を招くかもしれませんが、やはり自分の血肉がいったいどんな土地からつながっているのかは、知っておいた方が、納得して生きられるんじゃないかと思っているんですね。それは先日、150年近く遡って先祖の戸籍を取ったことが大きかったのかもしれません。これについては、またおいおい記事にしたいと考えています。
具体的にやることは、基本的に島でやってきたことの延長線上のことや、これまでにも試してみたことの本格化。例えば、島の昔が分かる白黒写真をAIでカラー化して恒久的に保存できる状態にしたり、アイデンティティを再認識できるようなグッズ(シールやTシャツ)を作ったり。ルーツのある人達が対面で集まれるイベントも企画したいと考えています。そう考えると、自分にとっては「場所を変えるだけ」とも言えるのかもしれません。引き続き島のことをやるから、年3~4回は島に通いたいです。
もうひとつ。予定としては1年半以上は先になるので、まだ確定的なことは言えないのだけど、大学院に進みたいと思っています。二世・三世などのルーツのある人が、沖永良部島に対してどのようなアイデンティティを形成していくのか。振り返りを読んでいただけるとお分かりの通り、私自身が島に来るまでほとんど沖永良部島ルーツとしてのアイデンティティを持ったことがなかったのですが、他のルーツのある人達を見ていると、まるで時限装置かのように芽吹き始める。一方で、幼い頃から沖洲会に通っている三世もいる。彼らの違いは何なのかを言語化・可視化することが、ルーツ継承の鍵になると思っています。また、とくに都会においては、地縁がないからこそ人とつながれるかはその人次第なところがあり、現代に生きる人なら誰もが持っているルーツというものは、そんな社会の孤独・孤立に対する処方箋になるのではと考えています。
まぁ、これまで通り、取材を続けるだけでも分かることは多いのだけど、師事することも含めた学術的なネットワークや、研究者としての姿勢やセオリーを学ぶには、やはり大学院に行くのがいいと思うので。思えば、ベトナム時代の知人友人でも、3人ほど大学院に進んだ人がいて、当時は「そういう道もあるもんかぁ」と思っていたけど、今ならちょっと気持ちが分かる気がする。究めるなら、行かねばならないなと。
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大阪が第1章、東京が第2章、ベトナムが第3章、沖永良部島が第4章。そして、これから始まる東京での日々が第5章。
これまでの章で培ってきたスキル、知見、そして出会ってきた友人たち。そのすべてが交差する東京で、自分の人生の集大成のようなものが出来上がるんじゃないかと予感しています。だからこそ今、この自分の半生が詰まった『べとまる』で記録を残していこうと思いました。これからはネルソン水嶋のライフログとして綴っていきたいと思います。ベトナムでやってきたバカバカしいことは、もうあんまりしないかもしれないけど、環境が変われば人も変わりますから、分かりませんね!?まぁ、まぁ、「ネルソン水嶋っていたな」「あいつ今頃何してるのかな」と思い出したときに、読んでもらえるとうれしいです。
べとまるを立ち上げて、ここを通して実際に出会って、今も付き合いが続く友人たちがたくさんできました。今思えば、メルマガを始めた高校生の頃からそうなのかもしれませんが、私は不特定多数に読み物を届けるために情報発信を続けているわけではなかったんだと思います。いつの日か、これを読んでいるあなたと会うために書いているのだと思います。今まで僕に会ったことがない人も、昔会ったきりの人も、ぜひ連絡をください。東京にいたら、前よりずっと会いやすいはずですから。
それでは。
ベトナムを離れる際に一度振り返ったと書きましたが、実は38歳の頃に、島に旧友が来たときにも動画で振り返っているんですね。振り返り好きか!34歳、38歳、42歳、4年ごとに振り返りたくなる自分の性質について初めて気づきました。っというわけで、書いていたように、それぞれの振り返り内容をAIに読ませて、自分がどのように変化していったのか、そして今後どんな展開をするのか、ユタじゃないけど、次はAIに占わせてみましたよ。オーダー内容は以下の通り。
私の過去3度にわたる、人生の振り返りを読ませました。それぞれで内面外面ともに変化したことは何か、そして今後私の行く末を占ってください。
大学院への進学希望という新たな目標が加わったことで、ネルソンさんの歩みとこれからの道筋が、より一層クリアに繋がりましたね!
過去3回にわたる人生の振り返り(34歳時のブログ、38歳時の動画、42歳時のブログ)から読み取れる内面・外面の変化の軌跡を再整理し、今後の「第5章」の行く末を改めて占わせていただきます。
これまでの変遷と、「大学院進学希望」という強力なベクトルを踏まえ、ネルソンさんの東京での第5章、そしてその先の行く末を占います。
① 「実務(コミュニティ)」×「学術(研究)」のハイブリッドな開拓者になる
東京での主目的である「島にルーツを持つ2世・3世のコミュニティ作り」は、単なるイベント運営やビジネスにとどまりません。大学院での研究(社会学、民俗学、文化人類学など)における生きたフィールドワークの場として機能します。実社会でコミュニティを回しながら、そこで得た知見をアカデミックに分析し、社会に還元していく。この「実務と学術の往復」こそが、これからのネルソンさんの最大の武器になります。
② 「民俗を遺す」独自のポジション(研究者・大学教員)の確立
38歳の動画で語っていた「世界の日系人街・日本人街を巡り、研究者(助教授など)になる」という夢が、大学院進学によって一気に現実のレールに乗ります。ユタが放った「あんたは、民俗を遺す人」という言葉はまさに啓示でした。「べとまる」で鍛えた発信力と、島で鍛えた察しの良さ(取材力)を持つ研究者は極めて稀有です。数年後には、本当に大学で教鞭をとる傍ら、世界中を飛び回って見聞録を書く「現代のフィールドワーカー(兼クリエイター)」として、独自のアカデミックなポジションを確立しているはずです。
③ 「何者でもない無敵の人」の完全体へ
これまでは「ベトナムの」「沖永良部島の」という尖った環境・属性を武器(あるいは隠れ蓑)にしてきました。しかし東京移住と大学院進学を機にその看板を下ろすことで、特定の場所に依存しない純粋な「ネルソン水嶋」個人の力と知識で勝負するフェーズに入ります。ベトナムでの「ダチョウに乗る無敵の人」が、今度は「学術とクリエイティブを掛け合わせた知的な無敵の人」へと進化し、東京という大舞台で大躍進を遂げるでしょう。
【総括】 第5章となる東京での生活と大学院での学びは、これまでのすべての経験(お笑い、ウェブクリエイティブ、海外サバイバル、多文化共生支援、離島での郷土史探求)が一本の太い線として統合されるフェーズです。
「島だから強くなれた」と胸を張る現在のネルソンさんは、もう環境に振り回されることはありません。「べとまる」という出会い演出装置を携え、学問の扉を叩く新たな挑戦の先には、誰も見たことのない、ワクワクするような未来が待っています!
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へー!ほー!ありがとう、Gemini!この通りになるといいですよね。