ベトナムのホーチミンに暮らした、6年3カ月の振り返り。2018年3月に別ブログで書いたものの再掲です。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2019/12/17
ベトナムのホーチミンに暮らした、6年3カ月の振り返り。2018年3月に別ブログで書いたものの再掲です。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2019/12/17
※これは2018/3/28に『ネルソン水嶋.jp』(廃止済)で公開した記事をリライトしたものです。情報発信の一本化にあたって、べとまるに掲載します。なお、ここで書かれているものから現在までに状況は変化しており、それについてもおいおい書く予定です。
***
目次
こんにちは、ネルソン水嶋です。
活動場所はほぼインターネット。記事を書いたり、人の記事を編集したり、ウェブサイトの運営管理をしています。ベトナムや海外のネタが多めです。これまで自分がやってきた&取り上げられた中で代表的なものを挙げれば…
ベトナムで強そうだと思ってドリアンの皮を装備したり、
ベトナムの美しい洞窟におもちゃを置いて聖剣に仕立ててみたり、
記事コンテストで大賞をいただいたり、タイ情報誌で特集を組んでもらったり、関西ローカルのテレビ番組で国宝さんに認定してもらったりしてます。
さてさて。そんな私、2011年10月末から2018年1月末までベトナムのホーチミンに住んでいましたが、部屋を引き払って日本に戻ってきました。現地ではじめた『べとまる』というブログでブロガーに、またその受賞などをきっかけにライターになり、今は編集者としても活動しています。6月頃から一年ほどタイに住むつもりですが、ベトナムは自分にとって第二の母国だと思っているので、今後もときどき行くだろうし、二年後までに戻るつもり。
▲ベトナムで最初の住居はシェアハウス(弾けないギターを抱えているピンク色が私)。今はこの建物、水炊き専門店で、周辺は日本食街になりつつある。もちろんひとつの部屋に4人+1匹が住んでいた訳ではない。(2012年)
期間にして6年と3ヶ月いた訳ですが、いろんなことがありました。楽しいことも悲しいことも、山ほどありました。そこで今、僕がベトナムで経験したこと、とくに思い出深かったことぜんぶをここに書き記します。実はというと、それが『ネルソン水嶋.jp』というブログをつくったきっかけでもある。記事を書く理由はみっつあり、ひとつ、自分の整理のため、ふたつ、今後自分に興味を持ってくれた人に説明するため、みっつ、昔の自分のようにくすぶっている人に発破を掛けるため。最後は、押し付け願望って感じですが。
長いです!真面目一貫で退屈です!noteさんは自動で目次が出るとのことなので、そこから気になるものに飛んでもらった方が時短でいいと思います。
それでは、どうぞ。
ベトナム移住のきっかけは、現地に住む日本人からの「スカウト」だった。
もうダメだ!と思った社会人6年目の春、僕は次の職場も決めないまま、新卒から勤めていたIT企業を逃げるようにして退職した。転職活動はしていたものの、というよりも、どうしても入りたい会社があって(謎に)三年に渡って転職の準備を進めてきたが、最終面接で落ちたことでポキッと心が折れてしまい労働意欲メーターは0に。その存在を勝手な心の拠りどころとしていた僕は、目標とともに働くどころか生活する気力さえも失いかけていた。
しかしいざ無職になってしまえば、暇は暇でしんどいなというわがままなことを考える。当時、社会見学的な催しが流行っていたことと平日に動けるという理由で皇居や国会議事堂の見学などで暇をつぶしていたが、それも飽きた末に思い浮かんだ言葉が「海外旅行」。当時27歳、一度も海外に出たことがなく、それを誰に言われる訳がなくもコンプレックスに感じていた僕は、時間と多少の貯金がある今しかないと一念発起。ただしこの時点では、暮らすどころか、旅行先としてすら、ベトナムの「ベ」の字も頭になかった。
▲中国・大連で、シュールだ!と思い撮った写真。ライターであろうがなかろうが、見ているところは昔から変わっていないと思う。(2011年6月頃)
つまり、転職先も決めないまま海外旅行!
はたから見れば能天気だが、べつにそんなことはない。だって本当に今しか行けないし。ただ、海外旅行から帰ってきたあとの生活(仕事)はどうする?という不安は常にあった。そこで以前から使っていたとある風変わりなウェブサービスを利用。それは『元気玉』というもので、投稿したお題に11人のアイデアマンがひとつ100円で解決案を売ってくれる。有名なのでお察しの方も多いだろう。この運営会社の『面白法人カヤック』こそが、前述の入りたかったが落ちてしまったという会社なのだった。そこに依頼したお題は、「転職活動につながる海外旅行を考えてほしい」。アイデアに困っていたことは事実だが、ほとんど未練がましく接点を持とうとしていただけだ。
そんな片思いをバッサリ切るかのごとく、回答のいくつかはもはや説教だった。「海外旅行は娯楽なのでそれが転職につながることはないんじゃないでしょうか」、ごもっともかもしれないが(今ではそうか?と思うところも正直ある)、説教を100円で買うという気分は新鮮であり複雑だった。また、いくつか、「それなら海外で就職しちゃえばいいのでは?」というものもあったけど、当時は「無茶苦茶言うなぁ…」と苦笑いして終わり。このときはたったの半年後にまさかそれが現実になるとは露ほども思わなかったが、因果なもので、この元気玉でのやりとりこそが最大のきっかけになったのだ。
元気玉はとくにオプション料金を払わない限り、お題と回答がウェブで一般公開される(つまり、カヤックの「アイデアに強い」というブランディングでもあった…と思う)。それもあり、大して期待もせず瓶詰めした手紙を海に流すつもりで、お題に自分のTwitterのアカウント名を載せておいたのだ。しかし、まさかの連絡。まさかの、ベトナムからだった。海に流すと書いたが、まさか本当に海の向こう側から連絡があるとは思わなかった。今でこそベトナムと縁を持っている僕だが、当時は、「ベトナム?…あっ、そういえば、ランチでよくお店ってベトナム料理屋??」という印象しかなかった。
メッセージの内容は、「元気玉見ました、旅行をされるならベトナムにあるうちのオフィスに遊びに来ませんか?」といったもの。面識もない自分にこんなことを言ってくるということと、その人がウェブ制作会社に勤めているということから、薄々感じていたが、会って話せばなるほど。最初からスカウトのつもりだった、とのこと。あとから分かったが、日本人のエンジニアは海外に出たがらない人が多く、日系IT企業の多くが技術系人材を探していたらしい。詳しくは調べてほしいが、ブリッジエンジニアという立場でだ。そうして、現地の有名店で麺料理を食べながら「ホーチミンで働いてみる気はないですか?」と聞かれた僕は、ふたつ返事で快諾。日本での研修を経て、4ヶ月後には旅行者ではなく在住者としてベトナムの土を踏んでいた。
▲ハッキリと「スカウト」された地元のフォー有名店。
たった数ヶ月前に「海外で就職しちゃえば」と言われて苦笑いを浮かべていた自分が、なぜふたつ返事で快諾したのか。理由は大きくふたつある。
ひとつは、中国の大連に移住した友人の存在だ。Twitterのお笑いコミュニティ(後述します)で知り合った当時学生だった彼は、就活に苦労していたかと思えば地元どころか日本を飛び出し大連に就職。学校とか、職場とかではなく、『センス』という深いところが一致した人間がとった行動なだけに、「新卒で海外就職する時代なのか」と自分の海外観を素直に変えた。ベトナムを旅行する一週間ほど前に彼と大連で会って話したことで(まさかはじめて会う場所が中国だなんて予想できようか)、淡いながらも「住んでみたいな」と思っていたのだろう。ただ、当時の大連は日系企業進出バブルみたいなところがあって、彼のケースが決して全世界的ではないとのちに知ることになるのだけど。いずれにしろ、今になって思えば喜ばしい勘違いだった。
ふたつめの理由は、重要だ。就職したら任されるという業務が「ローカル市場向けの新規事業」だったから。エンジニアという仕事から逃げ出した僕がなぜ再びIT系の企業に転職したのか、背景もそこにある。それは根の深い話になるのでまたあとでゆっくり書こう。なんだったらこれがこの記事の核心だから。…そうして、2011年10月末から僕のベトナム生活がはじまった。今でこそたくさんの日系企業や日系飲食チェーンが集うホーチミンだが、当時はイオンもファミリーマートも丸亀製麺も、マクドナルドもスターバックスもない。でも、そんなことはどうでもよく(そもそも最初からないものに期待もなかったし)、朝と夜に道路を埋め尽くすバイクの海、白米におかずをぶっかけて食べる大衆食堂の美味さ、停電になるとヌンチャクを取り出し中学生のように遊ぶスタッフたち、目に映るもの手に触れるものすべてがめちゃくちゃで新鮮で楽しかった。余談だが、人によっては今のホーチミンですら不便だと感じるらしい。「大事なものは失って分かる」と言うが「必要ないものも失って分かる」のだろう。そこで僕は便利より刺激がほしかった。
が、それも最初の一ヶ月のうちのこと。前提が崩れる。
▲移住間もなくホビロン(孵化直前のアヒルの卵)に挑戦。(2011/12頃)
就職した会社はベトナム人スタッフが15人ほど、日本人スタッフが2人の会社。つまり自分は3人目ということだったが、一ヶ月後には再び2人に。僕に声を掛けた方ではなく、古参の日本人社員がスイッチするように日本へ出向した。当然、彼の仕事は自分が巻き取る。「あれ?」となる。日が経ち、訝しがり、業を煮やし、「新規事業はいつ出来ますか」と聞くと、「何言ってんの?日常業務をこなせないと新規事業なんてやらせないよ」という返事。や、こなすというか、人おらんやん。あ、そういうこと。最初から。海を越えてまで望まない仕事をするつもりもないのですぐ退職。どこまでが建前で本音だったのか知らないが、声を掛けてくれたことはずっと感謝している。
ただ、それほどこだわった新規事業について「何をするかも決まってなかった」と聞けば「なんだそれ?」と思うかもしれない。その内容は「住んでから考えて」と言われていたくらいで、今思えば最初から疑わしき点は多かった。そこに考えが至らない、あるいは目をつぶっていたほどに僕がこだわった理由は単純明快、新規事業という自由度に「クリエイティブ」を期待したからだ。この言葉は、15年前から僕を掴んで離さない。根の深い話になる。
ここから時間は、20年ほどさかのぼる。
小学生の頃の僕は、友だちも少なく鍵っ子で、家でひとりゲームに没頭することが多かった。学校の教室ですら、ちょっとでも暇ができると机の上で手遊びをはじめて自作のゲームを妄想する毎日。はたから見れば、まー、根暗で気持ち悪いやつ。実際、けっこうひどいイジメにもあった。中学に上がって間もなく、教室の外から見た先輩(女子)にからかわれて手遊びはやらなくなったが、頭の中は常にゲームのちゲームときどき塾。そこで僕が将来の夢を意識したとき、YouTuber好きの子どもがYouTuberになりたいように、「ゲームをつくる人になりたい」と思ったことは自然のなりゆきだった。
そこに当てはまる仕事が「ゲームプランナー」と呼ばれることは分かったが、当時の僕はすべてにおいて主体性が乏しく、まずそもそも、夢は叶えられるものだという発想がなかった。あくまで消極的に、ゲームプランナーになれたらなりたい。「行けたら行く」と言う人がほぼ来ない、いい加減さ。高校で専攻を選ぶときは「ゲームっぽい」という理由から理系を選んだが、ゲームプランナーは文系に近いし、今思えばそれ以上に「理系は就職に有利らしい」という周りに対する忖度と同調だったと思う。担任は「ゲームプランナーは文系ちゃうか」だとつっこんでくれたが、掛ける迷惑をさらに忖度、いやきっと単に面倒くさがり、選択を覆すほどの度胸もなかった。
余談だが、僕は「夢を語るけどやらない人」に対して厳しいところがある。それによって自分自身損する部分が大きいことは分かっているが、なぜここまでと振り返ってみれば、そうだった頃の自分を勝手に重ねてしまっているからなのだと思う。なので、ヘンな話、最近は人の夢を疑うようになった。
そうして僕は、真剣に考えることなく選んでしまった情報技術系の大学へ。この頃になるとゲームからも遠ざかり、薄情なものでゲームプランナーという仮の夢に対して唯一あった憧れすらなくなりかけていた。そこに入学ガイダンスで学長が言った言葉、「アニメやゲームをつくりたくてこの大学に入る人も多いみたいだけど、ここにそういう道はない。みなさんはエンジニアを目指しなさい」がダメ押しに。その言葉によってゲームプランナーという夢は、挑戦することもなく消滅し、人生は暗闇に。ただ当時の僕は、諦める理由がほしかったのかもしれない。その点で学長の言葉はありがたかった。
「クリエイター」という言葉を耳にしたのは、そのすぐあとのことだった。
自分から相談したのか悩む姿を気にかけてくれたのか、今では忘れたが、兄がある学校の存在を教えてくれた。それは、『電通クリエーティブ塾』。当時広告業界の王様だった電通(今でもそうか)、そこで活躍する新進気鋭の広告クリエイターたちが中心になり、大学生や大学院生を対象に、クリエイティブ論を伝えたり課題を出して評価する、という内容の三ヶ月間のワークショップ。兄の友人がそこに通っており、課題で自作ラジオCMを聴かせ合ったという話が素直に、とても楽しそうでおもしろそうだとワクワクした。
ゲームに興味を失いかけていた高校三年の頃、実はたまたまテレビ番組でCMプランナーという職業を知って、「この仕事おもしろそうだな」「でも理系だしなれる訳ないな」と勝手に憧れて勝手に諦めたことが一度あった。その一瞬の憧れがぶり返し、「もし今からでもなれるもんならなりたい」と願った。しかも、塾の成績優秀者はそのまま電通の制作局配属を前提に内定が出る…なんて噂もあるらしい(まぁ、ほぼ本当だけど)。新たな夢と道のりをセットで得た僕は、本気になれるかも…なってもいいかも!と思えた。今になって思うことは、僕にとっての夢の本質は結局、ゲームだろうが広告だろうが、人を楽しませられるコンテンツをつくることだったのだと思う。
電通クリエーティブ塾の対象者は大学三年生か大学院一年生に限られ、かつ、入塾するには毎年競争率10倍近い(当時、関西の場合)という試験をパスする必要がある。企画の「き」の字も、アイデアの「ア」の字も知らなかった僕は、準備を決意。ネットで調べて知った広告学校、説明会を受けて、16万円というまとまった金を払って入学。それは、宣伝会議という広告業界誌が主催するコピーライター養成講座だった。開校から半世紀以上と歴史は長く、あの糸井重里や阿久悠、中島らもなども輩出した有名校だった。
これまた余談だが、この入学金については最初に親に相談、もちろん却下。向こうからすれば「大学に通わせたのになぜ違う道に金を出すのか」という話だが、当時はその考えも金額の多寡もよく分からないほど子どもだった。そこでちょうど母方の祖父母が畑仕事をしており、春前の収穫時期に手伝いに来てほしいということで、そのお小遣い(小?じゃないけど)で工面できたという訳。祖父は亡くなって、最近祖母に会ってきたのだが、当時のそのお金は働きに相当する利益ではなく、年金からも出していたそうだ。手伝いが無意味という訳ではないが、孫の顔を見たいという気持ちから。今になって改めて、自分の状況はいろんな人の支えあって叶っていると噛みしめる。
そして、宣伝会議のコピーライター養成講座。そこでは、企画を褒められたり、逆にダメ出しされる経験や、15年経った今でもたまに飲み交わす友人たちとの出会いを経て、はや2年が経ち。電通クリエーティブ塾の試験(課題付き書類審査→クリエイティブ試験&面接)に、合格。合格通知のはがきを受け取った喜びは今でもよく覚えている。20人余りの合格者がいたが理系は自分と大学院生の一人だけで、ゲームプランナーに絡んで理系の選択を少なからず悔やんだことがあった僕は、人生ではじめて努力が報われたと思った。こんな自分でも夢を目指せる、目指してもいい、誰かにそう言われた気がした。自分の呼び名が「ネルソン」になったのはこの頃(由来は後述)。
電通クリエーティブ塾の3ヶ月間終了と同時に、就職活動は本格化。この時点で僕は良くも悪くも、広告クリエイターになる将来しか見ていなかった。これまで見てきた、燦然と輝く壇上のクリエイターたち。いつかは自分もあそこに並べると、思っていた。が、しかし。クリエイティブは僕などより努力する人間やスマートかつ変態的なアイデアを繰り出す人間がいて、就職活動は僕などより明朗に自分をPRできる人間が山ほどにいた。努力の絶対量も足らなければ、うまく立ち振る舞う要領も分からない僕は、圧倒的に就活弱者だった。そして何より、これまで口に出したことすらないのだが…電通には、エントリーシートすら出さなかった。そうです、アホ。クリエイターになることと就職活動がどうしてもつながらなかった、といえば多少は格好もつくが、後悔する割に究極のマイペース気質だった。口ばかり、いやもっと悪く思うばかりで、本気になるべきときに本気になれない人間だったのだ。
そのままズルズルと就職活動を続ける僕に、親は我慢の限界を超え、(情けないことに)受験のための上京費用なども出してもらっていた僕は折れ、大学の就職課に泣きついた。すべては自分の責任、人生で一番みっともない頃だったと思う。不幸中の幸いで、と言うと失礼だけども、大学の就職支援のケアは手厚く、求人もあったので、業界においては中堅ながらも東証一部上場のIT企業に就職した。それが冒頭で登場した6年目に辞めたという会社だ。
エンジニアという仕事はいつまでも自分に合わなかった。僕は常に頭の中がしょうもない雑念でいっぱいなのだ。設計にもコーディングにも邪魔で邪魔でしょうがない、一方で一本の幹から枝葉を増やし伸ばしする企画・制作を行うクリエイター(いやいろいろあるけど)にとって雑念は栄養そのもの。だと、自分なりには今でもそう思っている。
今振り返ると、『面白法人カヤック』は僕にとってのアイドルだった。社員の給料をサイコロで決めたり、旅する支社といって期間限定で海外拠点をつくったり、とにかくヘンで型にはまった大多数の会社らしかぬスタイルに魅了された。ここなら居場所があるかもしれない、そう願い追いかけた。そんな憧れをこじらせたカヤック(ヘンな会社)シンドロームを持つ人は、少なからずいると思う。自分のヘンさが活かせると思えるならば、最低限、それで世に出るところがスタートラインだったろう。今のSNS社会ならとくに。
ここまで読んで、僕のことを他力本願な奴だと思うんじゃないだろうか。僕自身はそう思う。クリエイターになりたいぞ!クリエイティブなことをやりたいぞ!と言いながら、電通といった会社なり、カヤックなり、ベトナムのIT企業なり、あくまで、だれかの手によって「クリエイターにしてもらおう」としていたのだ。そのくせ、妙なところで手を出さない。まったくどうしようもない。本当になりたいのなら、泥水をすすって這いつくばっても、みっともなくても手足を必死に動かして、今すぐ自分で創作や活動をはじめればよかった。とくに今はウェブで簡単に勉強も自己表現もできる時代だ、あらゆるハードルが低い。クリエイティブの幻を追って海まで越えて、ベトナムに行き着いて、ようやく!「そんなものはない」んだと気づいたのだ。
そしてはじめたものが、『べとまる』というウェブサイトだった。
▲べとまるの最初のネタは、「家に畳を搬入する」というベトナムとはまったく関係ないものだった。(2012/5頃)
なぜウェブサイトを?と聞かれるといくつか理由はある。「当時、ベトナムを紹介する凝った日本語レポートサイト(ブログ)がなかった」…「ベトナムの発展が日本でも徐々に話題になりつつあった」…など。しかし何より最大の理由は、単純に「おもしろいことを書きたい」という欲求からだった。
▲はじめてウェブ上にアップするべとまるのプロトタイプ。無理やり漢字にしているあたり、ベトナムへの誤解が窺える。結局ボツにしてしまったのでデザイナーの方には申し訳なく思ってます。あと「我々」って自分以外誰。
僕は、高校三年から大学二年までメールマガジンを配信していたことがあった。ゲームプランナーや広告クリエイターへの憧れとは関係ないところで、当時のメル友(懐かしい)に影響を受けてはじめた。内容を簡単に言えば、コント風日記で、多いときで読者が400人ほど。ときどき、そばで寝ている兄を起こさないように布団にくるまったら携帯をカチコチカチコチ。「よし、今回は10個くらいボケてるな」とか、「感想が多いから今回はウケたのかな」とか、とても小規模ながらもあのとき自分は「お笑いをやっていた」と思ってる。たぶん、世の中的には、ハガキ職人みたいな方向性に近い。
ネルソンの由来は、この中で登場するキャラクターだ。屈強な黒人だけど、弱腰の泣き虫で、追い詰められたら七色に光ったり空を飛んだりと、荒唐無稽な設定を詰め込んでいた(文字にすると改めてアホだなぁ)。それがあまりに人気だったので、メールマガジンが書けなくなって終わらせようとするときに形に残したく、インターネットで使うハンドルネームとして名乗ることにしたのだ。クリエーティブ塾に入る直前、『みんなの就職活動日記』という掲示板で合格者が集まるスレッドがあって、そこで初めて『ネルソン』として書き込んだから、実際に会ってもそう呼ばれつづけた。という訳。
話を少し戻し、メールマガジンをやっていた頃の後半では、『侍魂』や『ろじっくぱらだいす』といったテキストサイト(今でいうブログだが、当時は個人サイトをつくる技術的ハードルも高かったため、本人のモチベーションも高く、自然とおもしろさも保証されていた)を知って、文章だけで笑いをとれる人たちに憧れ、その世界にのめり込んだ。先のふたつに比べると知られていないのだが、『ショットバイショット』『STAY GOLD!』『ロックロンロールキャベツ』がとくにお気に入りだ。この時代に活躍した人たちの一部が、後に登場する『デイリーポータルZ』の編集長や、『オモコロ』の初期メンバーとして、現在のウェブコンテンツの系譜をつくるに至っている。
社会人になってからは、Twitter上で大喜利の出題と回答者へのつっこみをはじめたりして、時代も合っていたのかニュースサイトに取り上げられる程度に注目された。ほかにも、当時住んでいた高円寺のまちおこしの一環で大喜利のイベントを開催したり、『ダイナマイト関西』という吉本の大喜利大会に参加させてもらったり(滑った)、『題と解』という千原ジュニアが主宰する大喜利の生配信番組でMVP獲ったり(これは褒められた)…とかなんとか。大喜利を中心にさまざまな取り組みに挑戦していた。これを書いている今の今まで忘れていたが、テレビ局の関連会社が主催する放送作家の学校にも通っていたんだった。この動きの一部が冒頭に出てきた、「カヤックに入るため三年してきた準備」のひとつでもあったのだが、勝手なおもしろ像を追っていただけで、カヤックに入るためには役に立ってなかっただろう。
▲これがはじめてのネットメディア掲載、それはもう喜んだ喜んだ。当時はネルソン「水嶋」ではなく「高円寺」でした(住んでたから)(2010/1頃)
▲友人イラストレーターにキャラクターをつくってもらい、マグカップまで販売した。今思えば、僕の青春は大喜利とともにあったのかもしれない。
話はべとまるに戻り。そんなお笑い好きの僕が、ベトナムという日本人にとって予想だにしないことが起こるネタだらけの国を前にして、「おもしろいベトナム記事を書きたい」という欲求が生まれることは当然だったと思う。
ちなみに、前述の、大連に就職した友人は僕がやっていたTwitter大喜利での回答者(それが「お笑いコミュニティ」)。今は、ネルソンならぬ「ネリソン」として大喜利のお題を出し続けてくれている。…名前の由来を説明すると、当時僕にはなぜか偽物がいたことがあり、まずはネラソンとネロソンが現れたんだけど、その流れで友人が「僕もネリソンになっていいですか?」とはじめた訳。なお、後にネレソンも現れたものの、今はネリソンだけが一宮→大連→上海→一宮→名古屋と自分の拠点によって名前を変えてつづけている(というか名古屋に移ったことを今これ書きながらはじめて知った)。
▲僕自身がそうであったように、ネリソンは今も古き良き時代の非公式RTを使っている。絶対めんどくさいだろ。
振り返ってみれば、くだんの「新規事業」において、べとまるのようなものをはじめるつもりはもとから考えていなかったにせよ、しがらみがないとこのようなものが出てくるのであれば、いずれにせよその会社と自分の意向はミスマッチだったのかもしれない。まぁ、そうだったとしても、そもそもやらせるつもりはなかった訳なんだし、今言ったところで不毛なんだけど。
ここまで来ると分かってもらえるとは思うのだが、「なぜ帰国しなかったのか?」とときどき聞かれることがある。当時は露ほど考えたこともなかったのではじめて聞かれたときは意外に思ったが、日本にいる人からすると当然の疑問になるらしい。その答えはただ単純に、日本に戻って自分が望むことが出来るようになるとは思わなかったからだ。たかが趣味で大喜利をしょっちゅうしていた元エンジニアが、どんな業界であれクリエイターと呼ばれるような仕事に就ける望みは乏しい、と思った。その場合、趣味が仕事になるまで盛り上げていくしかないのだけど、それであればなおのこと、ネタの宝庫であるベトナムという地の利を活かそうと考えることは当然だと思えた。
日本に戻ることがあるとすれば、それは成功か失敗か。後者であればまた元通りの生活になる、なるというか、元通りの状況には気持ちが耐えられないと思っていたので、自分がどうなるかなんて想像もできない。もし本当にそうなったら、自分は将来に絶望して死ぬんじゃないか?とすら思っていた。僕がベトナムで仕事を辞めたことを聞き、身内などの近しい人から「戻っておいで」と、今になって思えばありがたい言葉を掛けられたけど、それは自分が死なないためにも絶対に食べてはいけない甘い甘い毒饅頭だったのだ。
幸いにも、『べとまる』の船出は思いのほか順調だった。
人生は、うまくできているなぁと思う。コピーライター養成講座や電通クリエーティブ塾、Twitterでの大喜利、そしてエンジニア、すべての経験がひとつのウェブマガジンをつくる要素として噛み合い、友人を中心に反響は大きくなっていった。「ブログの撮影」感覚は「メディアの取材」感覚になり、外で握手を求められることも増え、ありがたくもベトナムの有名人とも呼ばれる機会が増えていった(あくまで日本人コミュニティのだけど)。人見知りなので、ほとんど「思ったより真面目なんですね」「思ったより静かなんですね」と言われたが、それはそれでそんな状況をキャッキャと楽しんだ。
▲はじめて紹介されたときの記事。(2012/8頃)
はじまってから三ヶ月ほどでニュースサイトにも紹介され(タイトルは「無収入ブロガーのおもしろ海外生活」!)、さらに三ヶ月後、つまりスタートして半年後にはライブドアブログのコンテストで入選。賞金は「奨学金」と言いながら返金不要で、一ヶ月ずつ5万円が半年間に渡って振り込まれるというもの。「自分が書いた記事が…お金になるのか!」と喜んだ。それから、「ベトナムでダチョウに乗る」「マクドナルド一号店にドナルドのコスプレをして行く」「スイティエンパークのレポート」などといった企画記事がウケて、ハノイの日本人向けトークイベントにゲストとして招待されたり、ホーチミン市在住、ベトナム在住日本人の間で順調に知られていった。
▲マクドナルド一号店へドナルドのコスプレ(?)をして行く。服はオーダーメイド(「ベトナム初のマクドナルドへドナルドのコスプレで行ってきたら、入店を断られた話」より)。(2014/2頃)
当初は日本に住む日本人に向けて書いていたが、在住者、なにより日本語の読めるベトナム人にも反応があったことには意外であるとともにうれしかった。おもしろいことをやりたいと思ってはじめたサイトだったが、そんな自分がまさか「日本人の視点が新鮮だ」「ベトナムを紹介してくれてありがとう」などと言って喜んでもらえると思わず(視点は日本人を代表してないと思うけど…)、それをきっかけに段々とベトナムが好きになっていった。また、通訳などで手伝ってもらいベトナム人の友人たちもずいぶんと増えた。
▲トークイベントの様子。人見知り気質のため、かなり緊張。(2014/2頃)
しかし、奨学金は別として、ブログそのものが収入になることはまずなかった。別に隠すことでもないので公開するが、ベトナムに渡った時点での貯金額は200万円。それを切り崩しつつ、やりたいことを思い切りやる。エンジニアという職歴と、当時オフショアブームでたくさんの日系企業が進出してきたことも手伝って、ありがたくも社員としてのお誘いを何度か受けたが、くだんの理由からそんなつもりはない。やりたいことをやるために、すべてを振り切ってここに来たのだ。と、いっちょ前にカッコつけてはみたが、「すぐに使えないヤツだとバレる」と思っていたというのが本音のところ。
それから、サイトを更新するほか、自分が呼ばれたハノイのトークイベントに触発されてホーチミンでも同じようなイベントを運営したり、また友人と話が盛り上がった末に街コンを開催したり。日本でやったイベントらしいイベントは大喜利関係くらいだったが(それも主な進行役は友人で自分は裏方だったのだけど)、ベトナムでのイベントも成功といえるほどには人を集めることはでき、記事以外の活動でも気持ちは充足していった。日本でのお金と心の充足度は、ベトナムにおいて完全に逆転。困ったことに楽しかった。
やりたいことをやりきる満足感、取材を通して高まるベトナム愛、反響を受けて生まれる自己肯定。その輝きが強く、目減りする貯金はしばらく見えなかった、見ないようにしていた。それはのちに大きな壁となるのだが、その前に、ある点ではより巨大な別の壁が激しくぶつかってくることになる。僕は6年3ヶ月のベトナム生活はおおむね楽しかったものだと思っているが、人生で後にも先にもあのときほどはないと思うほど悲しいことが次々起きた。今から書くことは愚痴だと思ってくれていい、だから最初にごめんなさい。
まず最初に断っておきたいが、海外の日本人コミュニティはおもしろいものだと思っている。規模にもよるが、それはまるで日本の縮図。ホーチミンには1~2万人の日本人が暮らすと言われているが、立場も、会社員・経営者・その家族とさまざま。業界も、IT・旅行・広告・法律…数えきれないほどさまざま。しかも同じ国を選んだ日本人ということもあって気も合うので、日本よりも確実に異なる属性を持った人たちと触れ合えて刺激を与え合える良さがある。だからこそ、一方で衝突も起こる。日本人を避けてベトナム人や外国人と付き合う日本人もいるが、多くは日系企業で働いており、完全な回避は望めない。とりわけ顔の広い営業職なら、休日まで客や上司と会いたくないので、日本人街であるレタントン通りには近づかないという人もいる。
そういった距離の近さを背景とした息苦しさによって何が生まれるかというと、ウェブやリアルも関係なしに飛び交う噂や陰口。誰かが別れた・付き合った、誰かが殴った・殴られた、個人間の些細ないさかいが、伝言ゲームによって尾ひれはひれがくっついて広まってしまう。そこで対象となるのは、「目につくヤツ」。名前も顔も出し、ダチョウに乗ったりドナルドになったりしている僕は、噂で暇をつぶしたい人たちの格好の餌食になっていた…らしい。なぜ「らしい」かというと、僕自身は見ざる聞かざるを徹底しても、周りの、赤の他人ではなく友人が、心配しているのかしていないのかは知らないが、「あんなこと言ってたよ」「こんなこと書かれてたよ」とわざわざ言ってくるからだ。もちろん彼ら自身に悪気がないことは分かっている。しかし、伝え聞く声の向こうには、ネガティブで真っ赤な嘘が平然と広がり、しかもそれを信じている人たちもいたりなんかして、本当にうんざりした。
▲「貧乏暮らし感」のよく出ている部屋。ここに住んでいた時期が精神的に一番辛かったと思う。(2014/7頃)
「水嶋はあのレストランの女性店員を金で買った」だの、「道端で会ったのに無視された」だの。買ったのは料理だけだし、無視されたとSNSで書き込む前にまずは一声掛けてくれない?こちとら一度会っただけでオンラインですらやりとりのない人の顔を覚えてられるか!、と…目の前にいないので言うにも言えない。極めつけは「水嶋と仲良くするな」「水嶋に近づくな」と、「(僕と面識のない人に)そう言われた」だの。おう分かった、近づかなければいいと思う。でも本人にそれ言うな。工夫して。で、そうした愚痴をSNSに書き込んだら、友人限定のはずが掲示板に転載されていると耳に入り…なんなんだお前ら!?人を二分するのってナンセンスだと思う。でも、この頃は、誰が敵で誰が味方が分からなくなった。人間不信になっていた。
ただ、そんな状況が長くつづいたこともあり、窮地で本当に応援してくれる人たちが浮き彫りになったと思う。自分の背中を押してくれた人たちの恩には報いたいし、一方で後ろ指を差したり蹴飛ばしてきた人たちは見返してやりたいと考え、それらのどちらの感触もシッカリと記憶に留め、今でもモチベーションの糧にさせてもらっている。毒も薬も確かに受け取っています。
サイトを通じて酸いも甘いも経験しながらも、相変わらず貯金は減る一方だったが、ここで転機が訪れた。ライブドアブログ奨学金のコンテスト以来、自分の記事が連続してふたつの大賞を受賞した。今でもライターとして参加している『デイリーポータルZ』の新人賞、そしてYahoo!スマホガイドの『スマホの川流れ』というコーナーだった(後に『ネタりか』に統合)。
連続!大賞!?うそうそ!!?
血管がはちきれんばかりに興奮し、飛び上がるほど喜んだ!DPZの授賞式に参加するべく一時帰国。ライブドアブログの賞ではウェブのみでの発表だったので実感はなかったが、目黒の高級式場を貸し切っての式で受ける祝福、あれは今でも「いま死んでもいい瞬間」ランキングの暫定一位だ。とか言って、3年半経って「今でも」ってのもどうかと思ったけど。なにはともあれ、それからぽつぽつと、ライターの仕事をはじめることになっていった。
デイリーポータルZの新人賞、受賞の様子(右端が自分)。(2014/10頃)
僕は前述のテキストサイト直撃世代でもあったので、そのレジェンドや系譜の人たちへの敬意の思いは勝手に強く持っていた、それだけにそんな人たちに褒めてもらえたことはたちまち自信につながった。でも、そこから先は同じ媒体でハッキリと数字が出る世界、海外(ベトナム)ということが強みになったり弱みになったり、いろいろと苦悩することにはなるのだが…。
いずれにせよ、こうして僕は、就職や転職や、社内の事業としてではなく、いろんな人たちに支えられながらも、30歳になってようやく夢が叶った、クリエイターとして一歩目を踏み出せた。そう思った。
▲受賞した記事「ベトナムでダチョウに絶対乗る方法」。(2012/11頃)
冒頭の自己紹介で述べたが、僕のことを「ドリアンを着た人」として認識している人が多い。そのきっかけは、間もなくあとの話だ。ドリアンを装備したら強そうに見えるかもと思ってやったら、地元の若者向けメディアで取り上げられ、それが日系メディアに取り上げられ、なぜかヤフーのトップに掲載された。まさにメディアのピタゴラスイッチ!この話題のお陰で、地元の大阪では有名なテレビ番組の、『となりの人間国宝さん』というコーナーで取り上げられ良い思い出になった(親は複雑に思っていたとかなんとか)。
ドリアンを装備した自分の姿が、
ヤフーの、いつも大きなニュースが出ているところに!(2015/6頃)
そうして、ライターの仕事を得たとはいえ、ふたつの案件だけでは日本より物価の低いベトナムでも生活は苦しい。というより、できない。移住当初は200万あった貯金額も、受賞から間もなくしていよいよ1万を切り、数千円(!)になっていた。親の言いつけで意義を疑いつつもマジメに年金は払っており、人生ではじめて友人から数万円ほど借金したりもして、ヤバイなヤバイな…と思っていたところ、ひょんなことから「就職」することになる。
その社長とはもともと面識があったのだが、僕の状況を聞いたところ、ウェブ関連でポストがあったのでどうかと誘ってくれたのだ。引っ越すたびに下がっていた家賃もそこではじめて上がる。並行して続けていたライターも次第に案件の数が増え、またベトナムでひたすら取材を続けて蓄えてきた情報量もあって、テレビ番組向けのリサーチや市場調査、ツアーの企画などと幅が広がっていった。このときから「ライターの本質って、書くことではなく知識や観察力なのかもしれない」と思うようになった。特定の分野でライターとして需要のある人は、きっとライター以上のことができるのだろう。
社長は、頭が上がらない、と言うにはちょっと関係性をあらわす言葉として正確じゃない気もする。体育会系なところもあるから僕とタイプは全然違うけど、その人がベトナムに住む人の中で最大の恩がある。僕自身がどうだとか言いたい訳じゃないんだけど、その人は人を見る目があるから、もしかしたら僕の今後の展開に期待してくれて助けてくれたところもあるのかもしれない。それならそれで、いやそうじゃなかったとしても、これからも時間をかけて恩を返していきたい。そもそも僕には、これまでご馳走になったり手伝ってもらったり、恩を返さなければならない人たちがたくさんいるのだ。
▲体育会系を裏付ける、誕生日に巨大カシスオレンジを飲まされる様子。隣の人は社長ではありません、インターンに来ていた方です。(2016/2頃)
それからライターの仕事をメインに据えるようになり、ベトナムについて自分なりにたくさんの記事を書いてきた。つもりだ。先日これまで寄稿した記事を数えるとちょうど200、べとまるで書いた記事も合わせると600くらいで、字数にすれば150万ほどになるだろう(ベトナムのことばかりじゃないが、だいたいそう)。きちんと原稿料をいただけるようになって、通訳をしてくれた友人たちに対価も払えるようになった。べとまるをはじめたばかりの頃、ベトナム人の友人に「楽しんでいるから要らないよ」という理由でずいぶん無償で手伝ってもらってきただけに、こうして感謝の気持ちを形として渡せることは涙が出るほどうれしいことだ(僕の金でなく経費だけど)。
その調子の生活がさらに二年つづき…
2018年1月末、僕はベトナムを離れることに決めた。
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▲最後の住居。8区と中心地から遠いが良いとこだった、お湯がたまに出なかったけど。(2017/5頃)
一年前から計画はあって、Facebookに書いたことで一部の友人知人は知っていたが、時期が近くなるにつれて何を思われてか、「ベトナムを捨てた」「ガッカリした」と耳に入りはじめた。正直、またかよ、面倒くさいな、匿名発言いい加減にしろと思った。もうあれだな、今後はバ~カの一言で済ませたい。ここまで読んでくれた人なら分かってくれるだろう、僕はベトナムに救われて今ここに生きていられる。34年生きてきた中での6年余り、1/5にも満たないが、20年以上に渡って抱いてきた「クリエイターになりたい」という夢を形にしてくれた場所なのだ。では、なぜ離れるか、直接的な理由は次の章に書くが、「これからもベトナムといい関係をつづけるため」だ。このままここで生活するだけならなんとか出来るかもという気もしていたが、それで外から見た魅力を伝えつづけることは簡単じゃない。どんな名画も5cmの距離で見れば何が何だか分からない、コンテンツをつくる人間には死活問題だ。だから、一度距離を置いて、この国を客観的に見ようと思った。
これは本当に狙い通りで、離れることを決めた途端に姿勢は変化し、新しいアイデアがポンポンと湧いた。今、それぞれベトナムにおける、「文化について」「生活について」「子どもについて」、3つのプロジェクトの構想がある。三年後くらいまでにひと通りできるといいなと、今から楽しみに思っている。だから、僕は誰に呼ばれずとも再び戻る。だって戻らないと出来ないし。できれば、一年半から二年後までの間にそうなりたい。
『べとまる』はずいぶんおざなりにしていたけど、記事20~30本分の素材はあるから、これからも変わらずコツコツと更新していくつもり。ネタが尽きたら尽きたで、まだまだやっていないネタが50本以上はあるから、ときどき行っては写真を撮ったりまた相変わらずヘンなことをすると思う。それに、ベトナム語訳だってある。これを書き上げたら真っ先に着手しようと思っている。これは本当に待たせてばかりでごめんなさい。
■追記(2019/3/12):ベトナム語版べとまる、公開しました。
この6年3ヶ月間を振り返ってみると、つくづく、「自分は本当に運がいい人間だなぁ」と思う。楽しいことも悲しいこともあったけど、ベトナムに渡ったことも、べとまるをはじめたことも、賞を獲ったことも、ライターとして仕事をいただけるようになったことも、おおむね前向きに事は進んできた。でも、もちろん自分の力だけじゃない。ベトナムという国に暮らし、周りの人に恵まれてきたからにほかならない。それは、死ぬまで忘れてはならないことだ。だから未来の自分に伝える、それだけでこの記事には意義がある。
好きなことでメシが食べたい、だなんてYouTuberのコピーのパロディっぽいけど、簡単じゃない。簡単じゃないが、やれないこともない。すごくシンプルに、体力的限界だったり、寿命だったり、与えられた時間のうちに間に合うかどうかってだけだと思う。時間がないとか、家族の面倒を見るとか、稼がなくちゃいけないとか、いつまでも「言い訳」している人ほど強いはず。自分に嘘がつけない人なんだから、一度走り出したらもう全然、折れない。まず、やりたいことをやる方がハツラツとして、人生の燃費がいいでしょ。
言い訳が現実としてのしかかる問題でも、それだけで本当に全く何も手が着けられないの?ソシャゲーやってない?ネットサーフィンやってない?飲み会はどうしても大事?あなたの懐にある夢に比べて。それはケースバイケースだから僕には分からないけれど、自分がそうだと思う人は、がんばって。本当に手が空かない人はまず公言してみれば、思わぬ形で機会が来るかも。
と言いつつ、僕もまたやりたいことの半分もやれていない。「好きなことでメシを食べる」という点ではまだまだ全然ギリギリライン。がんばります。
おわり
ここまでの部分の公開は、今からほぼ一年前。当初、ここからは「カルチャーショックが教えてくれること(今後の動き)」というタイトルで、タイに行く理由と、今の主な活動について書いていました。が、ちょっと外向けにエエカッコしてたので削除。言葉を変えて、改めてお話したいと思います。
今、私は『海外ZINE』という世界のカルチャーショックを紹介するウェブサイトの編集長をしています。これまでに、26カ国の文化・歴史・暮らしなどについて、現地在住のライターが紹介。あえて、定番の観光ネタや、ニュースといった時事性の高いネタは選んでおりません。日常の中にあるカルチャーショックから、歴史・国民性・地形天候…さまざまな要因からなぜそうなのかという、「文化✕背景=価値観」を伝えることに軸足を置いています。
ほんの一例ですが、
>韓国で雨の日にチヂミを食べる→油の弾ける音が雨音に似てるから連想させる。また、家にある食材でつくれる場合が多く外出しなくてもよい。
>アフリカの少年たちはバク転をよくする→外遊びが多く、農作業で積まれたトウモロコシの皮など自然のクッションが多く練習しやすい環境がある。
>ドイツのベルリンには築百年以上の団地が多い→かつて工業国化に進む上でたくさん建てられ、また東ドイツ時代にはパレードの舞台装置として派手派手しいものが建てられた(一方で内装は簡素だったりする)。
こんな感じ!おもしろくないですか?
これまでおもに取材を通し、ベトナムのさまざまなカルチャーショックを見てきましたが、途中で「これってほかの国にもあるんじゃないの?」と思うようになりました(考えれば極々当たり前のことなんですが)。でも、自分の身体はひとつだし、知ろうにも知ることができない。そんな思いを抱いていた中で、トラベロコさんから「ウェブメディアをはじめたい」という話をいただき、この海外ZINEがはじまった訳です。本当に。おもしろいですよ。
国のバラエティだけでない。この記事では僕の半生について綴りましたが、自分よりも圧倒的に濃い生き方をされてきた方々が、自分たちの国や街について、愛を持って書かれています。魅力はいくらでも語れてしまいますが、あまりここで言い続けるのも野暮なので、ぜひサイトを訪ねてください。
さて、タイ行きを決めた背景は、いろんな方と仕事をしたかったからです。
ご存知の方も多いでしょうが、タイの日本人人口は10万人とも言われ、これはベトナムの5倍ほどの数字です。私がベトナムで生活していた数少ない不満といえば、「同業者が少なすぎること」でした。いや、ライターというくくりで言えばいるにはいるのですが、ウェブで、私自身が扱うテーマや企画やスタイルがニッチすぎたと(日本には全然いる)。そこで、タイ・バンコクにはおもしろい(日本人)クリエイターが集まっているということは知っていたので、いったん拠点にしてみようかと考えたのでした。もちろんすでに書いてある通り、離れた距離からベトナムを見たかったのも大きな理由。
で、今これを書いている日が、2019年3月12日。ほぼ一年経ってますね。
そんなタイ・バンコク生活にもいったんの区切りを付け、再び5月、ベトナムに戻ることに決めました。場所はホーチミン…ではなく中部都市ダナンです。ほかの国という選択肢もある中でなぜベトナムに戻ったのか、そしてなぜダナンなのか。それはまた、実際に行ったあとにでも書こうと思います。
では、か~なり!長かったかとは思いますが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました!(マジで読了したら連絡ください仲良くしたい)
▲最後の住居、退去直前に振り返っての一枚。道はあれですが建物はキレイ。(2018/1)