ドンズー運動を端的に言えば、ベトナムがフランスから独立を目指す上で日本から思想や知識を学ぶというもの。その歴史は、ベトナム人・ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎という日本人の友情なくしては語れません。
ライター:イシイ 公開日:2013/09/28
ドンズー運動を端的に言えば、ベトナムがフランスから独立を目指す上で日本から思想や知識を学ぶというもの。その歴史は、ベトナム人・ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎という日本人の友情なくしては語れません。
ライター:イシイ 公開日:2013/09/28
はじめまして。イシイです。
ベトナム考古学を研究したりベトナム書道を習ったり、NO VIETNAM, NO LIFEなホーチミン市在住者です。
初めての記事は、【ファン・ボイ・チャウPhan Bội Châu】についてです。
目次
2013年9月29日(日)、日本・ベトナム国交樹立40周年スペシャルドラマ「The Partner~愛しき百年の友へ~」が日本のTBS系とベトナムのVTV1(ベトナムテレビジョン1)で放送されます。ベトナム語では【Người cộng sự】(=パートナー)、しかし「~愛しき百年の友へ~」の部分はありません…。
このドラマ、フランスの圧政下にあったベトナムの反仏独立運動の指導者・ファン・ボイ・チャウと、日本で彼を陰ながら支えた名も無き日本人医師・浅羽佐喜太郎の知られざる友情の物語であるわけですが、ファン・ボイ・チャウとは実際どのような人物であったのか、ご紹介してまいります。
… ちなみにレ・ホン・リェンLê Hồng Liên役のグエン・ラン・フオンNguyễn Lan Phươngさんって【アジア語楽紀行 旅するベトナム語】に出演されていた方だ!と気づいてテンションが上がりました(この番組、2005年8~9月(その後再放送多数)にNHK教育テレビ ジョンとNHKワールド・プレミアムで放送されたミニ語学教育番組なのですが、番組もテキストもおすすめです)。
歴史の授業などで「ファン・ボイ・チャウ」、「東遊(ドンズーĐông Du)運動」といったことばを耳にしたことがあるのではないでしょうか。
後々ベトナムの独立に大きな影響を与えたこの東遊運動をおこした人物こそ、ファン・ボイ・チャウです。(写真:ファン・ボイ・チャウ)
漢 字で「潘佩珠」、本名はファン・ヴァン・サンPhan Văn San(潘文珊)。その他、著者としてサオ・ナムSào Namとかティ・ハンThị Hánとかドック・ティン・トゥĐộc Tỉnh Tửとかヴィエット・ディエウViệt Điểuとかハン・マン・トゥHãn Mãn Tửとか、色々な名があったようです。
1867年12月26日、仏領インドシナゲアンNghệ An省(ホー・チ・ミンHồ Chí Minhと同郷、ゲアン省出身の文人も多い。ちなみに噂のベトナム人サッカー選手レ・コン・ヴィンLê Công Vinh選手もゲアン省出身)で生まれて、1940年10月29日、72歳でこの世を去りました。
父ファン・ヴァン・フォーPhan Văn Phổは貧しい読書人(儒士)で、村塾教師、ファンは幼少期から漢字を習って、古典漢籍を学んでいました。
6 歳にして3日で三字経Tam Tự Kinhを学び、7歳にして論語Luận Ngữを読み、13歳にして科挙の前々段階にあたる、府県レベルで実施される「課」に合格しています。つまりものすごく天才。諸事情で科挙合格は30歳を 過ぎてからとなりましたが、10代の頃から反仏独立運動に関わるようになってゆきます。(写真:フエにあるファン・ボイ・チャウの銅像)
このファン・ボイ・チャウの銅像、フエ(トゥアティエンフエThừa Thiên Huế省)の19 Lê Lợiの公園にあるそうです。か、顔だけ?!という気もしますが…そしてファンの顔写真と似ていませんが…
1887年以降、フランスの植民地となったベトナムでは、フランスの搾取に対する反仏運動が展開されていました。不平等関税制度、中国・日本からの輸入による貿易赤字、塩・アヘン・アルコールの専売制度による価格上昇などで、ベトナムの生活は破壊されていたのです。
そして20世紀初頭、伝統的な支配層とつながりながら、かつ西洋近代の教育も受けた知識人たちが、反仏独立運動の担い手となってゆきます。
こ の頃中国で刊行された書籍類「新書」を通じて「日本」の存在が知られるようになるわけですが、ファンもまた、科挙で学んだ漢文読解力をいかして中国語の 「新書」を読みながら、明治維新以降の富国強兵、近代化、1894~1895年の日清戦争勝利といった、何だかすごいらしい「日本」に着目します。
こ こでちょうど、1904年2月、日露戦争が勃発。ファンは、日本人もベトナム人と同じく、欧州の「黄金色の髪と白い肌」の人を敵とする、アジアの「赤い血 の流れる黄色い肌」の人(同じアジアの黄色人種ということ)であるゆえ、日本であれば、ベトナムの反仏独立運動に手を貸してくれるのではないか、と考えま した。つまり、ベトナム国内で入手できない近代的兵器を求める相手として、日露戦争でも勝利した、今後のアジアの覇主となり得る日本を選んだのでした。動 機は単純です。
ファンは、1904年、阮朝皇族のクオン・デCường Để(彊柢)を盟主として「維新会」を創設、1905年初め、日本へ兵器を求めるため、2名の同志とともにベトナムを出ます。
このクオン・デ、阮朝の創始者グエン・フック・アインNguyễn Phúc Ánh(阮福暎または阮福映)= ザーロンGia Long(嘉隆)帝の長子であるグエン・フック・カインNguyễn Phúc Cảnh(阮福景)の子孫です。アインとカイン父子は南ベトナムを拠点としていたこと、また支援者のフランス人宣教師が幼いカインとともにフランスに渡っ たこともあって、南部の資産家や地主、中部や南部のカトリック教徒の間に、カイン直系の子孫であるクオン・デを慕う風潮がありました。したがってファンた ちにとっても独立運動のメンバーや資金が得やすくなるという点で好都合だったのでした。(写真:クオン・デ(左)とファン・ボイ・チャウ(右))
ファンらは、ベトナムを出て、中国(香港、広州)~上海~神戸、そして横浜へ着きました(1905年初夏)。神戸~横浜は、なんと1889年に全通した東海道線で移動したとのこと。こ の横浜に、中国・清における1898年の戊戌の政変後に日本へ亡命した梁啓超が居るとのことで、ファンは早速ファンレターを書きます。ベトナムにも名の轟 く梁啓超、ファンはずっと彼のファンだったそうです。梁啓超も、センスのある漢文でファンレターを書いてくるベトナム人が気になって、ふたりは会見するこ ととなります。しかし読み書きはできても、中国語の会話ができるわけではないファンと、梁啓超は、筆談で語らったとのこと。漢字文化圏ってすごい。
梁 啓超もファンのことを気に入って、著書『越南亡国史』執筆のサポートをしたり(添削、刊行資金など)、犬養毅や大隈重信へファンを紹介したりしました。政 治家であるとともに教育者でもあるこのふたりから、兵器で以って独立運動をおこすのではなくて、「独立運動を担う人材を育成する」ことで以って独立運動は 成功し得る、と説かれたファン(日露戦争で日本も疲れ果てていたということもあっての説得)。
その後ファンも日本で様々な本を読んで、日本のように強い国をつくるには、やはり人材の育成から、と認識しました。
ベトナム語資料で、犬養毅はベトナム語でKhuyển「犬」Dưỡng「養」Nghị「毅」、大隈重信はÔi「?」Trọng「重」Tín「信」と表記されていました。
東遊(ドンズー)運動、ベトナム語で【Phong trào Đông Du】(風潮東遊)。
というわけで、ファンは「人材を育成する」ために、ベトナム人青年を日本に留学させて近代文明と富国強兵政策を学ばせるという東遊運動をおこしました。1905~1909年のうち、最盛期の1907~1908年には約200名のベトナム人青年が日本へ留学しました。(写真:東遊運動で日本へ渡ったベトナム人留学生)
彼 らが学んだ勉学先として、今のNGOのような民間団体、東亜同文会が経営する予備校「東京同文書院」、日本の陸軍参謀本部が経営する軍事予備校「振武学 校」(1906年に日本へ渡ったクオン・デも「阮中興」の偽名でここで学んだ)などがあります。留学生の大半は前者、クオン・デを含む4名は特別学生とし て後者で学んでいました。ベトナム人は中国人と外見が似ているため、中国人にまぎれて日本に滞在していましたが、やはり漢字文化圏で漢字の読み書きもでき るため、中国人と一緒に学べる上、日本人としても教えやすかったのでした。「ベトナム人学生は勉強熱心、品行正しく成績優秀」と称賛されていたようです (今でもベトナム人について同じようなことを耳にします)。運動の資金は、国内同志たちの募金、留学生の父兄からの献金、留学生の携行資金、日本人や中国人の援助で成っていました。
ファ ンは、運動を進めるため、ベトナム人青年へ日本へ留学することを呼びかけながら、留学生の父兄へ資金援助を求める文書とともに、「国民の愛国心を鼓舞し、 反仏のために団結」することを促す内容の著書を執筆して、この運動をベトナム国内へもこっそりすこしずつ広めてゆきました。これらは漢字のわかる知識人に よって読まれた後、ベトナム語訳または口伝で一般民衆へも広まりました。
しかし日本は欧米列強諸国と協調するため、1907年日仏協約に調印、フランスの要請にしたがって、日本国内のベトナム人留学生を追放することとしました。日本に裏切られた失望から、日本で自ら命を絶った留学生も居たそうです。
1908 年、ファン・ボイ・チャウや、彼とともに日本へ渡ったファン・チュー・チンPhan Châu Trinh(=Phan Chu Trinh、潘周楨)らの影響で、ベトナム各地で農民デモや反乱未遂事件がおこります。その後、支援者や留学生の父兄に対するフランスの本格的な弾圧か ら、資金も枯渇、留学生も動揺、1908年末頃には留学生の多くが日本を離れました。1909年3月にファン・ボイ・チャウも、同年11月にクオン・デも 日本を離れます。彼らの帰国にあたって、犬養毅から留学生のためのの横浜~香港間の乗船券100人分と2000円、柏原文太郎からクオン・デのた めの1000円と護身用拳銃、そして浅羽佐喜太郎からの1700円といった大きな援助がありました。1907年(明治40年)の1円=現在の約1080円 なので、ものすごく大金です。
この浅羽佐喜太郎について、ファンは資金援助の恩を忘れていなかったものの、1917年に会いにいこ うとしたときにはすでに浅羽が病死(1910年)していたことを知って、1918年、出身地の静岡県浅羽村に報恩の石碑を建立しました(現在の常林寺)。 この石碑、現在浅羽町の町指定文化財となっているそうです。石碑には以下の文が刻まれています。われらは国難(フランスによる侵略)のため扶桑(日本)に亡命した。公(浅羽佐喜太郎)はわれらの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。大正7(1918)年3月 越南光復会同人(写真:浅羽佐喜太郎)
(写真:浅羽佐喜太郎への報恩の石碑)
ちなみにファン・チュー・チンは、ファン・ボイ・チャウとともに日本でベトナム人留学生の育成にあたっていましたが、そもそも日本の富国強兵を信頼しておらず、ファン・ボイ・チャウとは異なる意見、方針であったようで、その後別々に動いてゆくこととなります。
(写真:ファン・チュー・チン)
日 本を離れて中国へ逃れたファンは、1911年の辛亥革命の翌年、1912年にベトナム光復会を結成、中国からの支援を期待して共和制を掲げて、やはり兵器 によるベトナムの独立を目指したものの、うまくはいきませんでした。ファンは日本を批判、一方のクオン・デは日本に頼っていたことで、ふたりの間にも溝が 広がってしまいます。その後ファンは1914年に広州で逮捕、監禁されて、出獄した後1925年、上海でフランスの官憲に再び逮捕されて、ハノイHà Nộiの公開裁判で終身刑となります。しかしベトナム国内の世論の反発によって恩赦、釈放後はフエで軟禁されたまま、1940年にこの世を去ることとなり ました。(写真:フエにあるファン・ボイ・チャウが晩年を過ごした家)
(写真:フエにあるファン・ボイ・チャウの墓)
ベ トナムの通りの大多数に、歴史上の人物の名がつけられています。歴史上の人物の名の他、歴史上のできごとにちなんだ通り名(8月革命、2月3日(ベトナム 共産党創設記念日)など)、国にかかわる単語(共和とか独立とか…)、地名、モノの名(ハノイにモノの名の通りが集まったところがあります)、花の名 (ホーチミンに花の名の通りが集まったところがあります)などさまざまですが、人名の通り名が主です。
もちろんファン・ボイ・チャ ウPhan Bội Châu通りもあって、省または市の中心部を通っていることが多いです。地図をみていてふと気づいたのですが、ホーチミン市のファン・ボイ・チャウ通りは ベンタインBến Thành市場の東側を南北に通っています。そしてベンタイン通りの西側を南北に通っている通りはファン・チュー・チンPhan Chu Trinh通り。はてさて、たしか東遊運動で共に日本へ渡りつつも反発して離れてしまったファン・ボイ・チャウとファン・チュー・チン。このふたり、ホー チミン市では中心部の中心で、仲良く並んでいたのでした。…しかし2つの通りは交わらずいつまでも平行線ですが。
(ちなみに他の市、省もすこし調べてみたところ、いくつかの省ではこれら2つの通りはきちんと交わっていました。)
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日本・ベトナム国交樹立40周年スペシャルドラマ「The Partner 〜愛しき100年の友へ」日本:TBS系列で9/29(日)21時放送/公式サイトベトナム:VTV1で9/29(日)20時放送/公式サイト
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参考文献・URL一覧
浅羽ベトナム会・東京外国語大学 「東遊運動100周年記念」資料
白石昌也 2013.9.17「日本をめざしたベトナムの英雄と皇子―ファン・ボイ・チャウとクオン・デ―」講演会資料(於ベトナム三井物産有限会社ホーチミン本店会議室)
中野亜里 2010「抗仏戦争と独立 日本への期待と失望」『ベトナム検定 ASEAN検定シリーズ ベトナム検定公式テキスト』(株式会社めこん)pp.60-61
http://asaba.hamazo.tv/:浅羽ベトナム会
http://vi.wikipedia.org/wiki/Phan_B%E1%BB%99i_Ch%C3%A2u :Wikipedia(Phan Bội Châu、ベトナム語)