沖永良部島の42字(あざ=集落)の旧名と由来の説

沖永良部島の42字(あざ=集落)の旧名と由来の説

字(あざ)とは集落のこと。沖永良部島(おきのえらぶじま)にある42字(1町21字)の由来の説をご紹介します。この内容は、私(ネルソン水嶋)が、『沖永良部島地名考(永吉毅氏・著)』(1976年出版)の内容を編集したものに加えて、同島・国頭出身で、和泊町歴史民俗資料館の館長を務めた郷土研究家の先田光演先生の監修を受けたものです。

参考図書にも記載されていますが、多くの場合、歴史ある字名の由来を正確に特定することは困難であり、しまむに(方言)や自然環境などから推察されたものになります。ぜひ、いろんな想像を巡らせることで、一人でも多くの方に字の名前の由来と歴史に興味を持つきっかけとなれば幸いです。

目次

沖永良部の旧名と由来(説)

沖永良部 おきのえらぶ セリヨサ

セリヨサという呼称は、16~17世紀頃に琉球王国でつくられた歌集「おもろさうし」に登場する。琉球王国における沖永良部の古名という説があるが、「ゑ(え)らぶしま」「ゑ(え)らぶせりよさ」という言葉を含む歌もあるため、沖永良部の別名であるとともに、えらぶの港の古名でないかともいわれるが、由来は不明である。

和泊町の字名の旧名と由来(説)

和泊 わどまり ワドゥマイ

ワドゥマイには主に2つの説がある。1つめは、和(ワー)の漁師が、漁の前に波が落ち着くまで休憩した(「和」の人が「泊」まった)。2つめは、大きな湾を意味する湾泊(ワンドゥマイ)から「ン」が省かれ、「ワドゥマイ」と呼ばれるようになった。なお、同じ奄美群島の喜界島には「湾」と呼ばれる地名があり、「喜界や湾止まり」というシマ唄がある。

和 わ ワ-

ワーにはかつて、「シマアタイ」「メーマアタイ」「ニイプラアタイ」という3つの集落が存在し、これらが平和に共存する様子から名が付いたとされる。しかし、多くの字が地理的特徴から名付けられるため創作由来という説も。和にはソージゴーと呼ばれる湧水地があり、ワーという名前もそれに由来するのではないかと考えられる。

手々知名 てでちな アカタジ

保元の乱に敗れ伊豆大島に流刑された源為朝が、畦布から手々知名に移り、数年間暮らしたという伝説がある。アカタジは、為朝が自らの館を指して「吾館(あかたち)」と呼んだことに由来するといわれる。一方で、「(干)潟地」から名が付いた説もある。なお、1950年頃まで、上手々知名と合わせてティーチャと呼ばれた。

上手々知名 うえてでちな ティーチャ

「テイ(嶽)」「チャ=キナ(焼畑をする場所)」で「ティーチャ」といわれる。「手々」の「々」は、ティーの長音記号(ー)を「々」で表記した可能性が高い。アカタジ(手々知名)とは1950年まで一つの字だった。なお、隣町の知名との関連が気になるが、そもそも、どちらも由来は同じキナ(焼畑をする場所)だと考えられる。

喜美留 きびる チビル

チビは「きび」(きび団子のきび)、ルは「の」で、「きびのよく実る場所」という意味だったといわれる。水が少なくとも育つ穀物で、かつては島での主食の一つだった。同じイネ科のサトウキビではないことに注意。知名に「喜美附」「知美留窪」、住吉に「喜美当」という小字名があり、かつて広く栽培されていた可能性がある。

畦布 あぜふ アジフ

アジフは、按司(アジ。琉球文化圏における豪族の呼称)の拠点(府)があったためといわれる。この按司については、保元の乱で敗れ、伊豆諸島へ流刑となり、沖永良部島に数年間居住した源為朝と関連付ける見方もある。一方で、アジフという地名は「葦が生い茂る場所」に由来するものとして全国にあるため、それと同じという説もある。

出花 でぎ ディギ

西原から出花への山林(金比羅神社のある大地の西斜面)はかつて竹林に覆われており、それを「竹山(デーヤマ)」と呼んだ。その台地が北に向かって鼻のように突出していたことから、本来は「竹鼻」と名付けられるものが「竹花」となり、現在の出花(ディギ)に変化していったといわれている。

伊延 いのべ ユヌビ

ユヌ(溝川の)ビ(水の流れ出るところ)で、「河川の下流地域」という意味といわれる。現在の伊延に川は見られないが、石上俣という渓流跡が見られ、後方の丘陵地から流れて丸くなったと思われる砂礫があることから、かつて伊延に河川があったと考えられる。なお、和泊港の裏港にあたる伊延港がある。

国頭 くにがみ クンゼ、クンジャイ

クン(国)ジャイは、島で日が昇る場所を意味するといわれる。ただし、ジャイがどのような音から変化していったのかは不明。住吉字の旧名「島尻(シマジー)」は国頭と反対に日が沈む場所との関係にあるが、シマジーの由来も諸説ある。種子島の国上や、沖縄県国頭村など、島の東端にある地名に同名のものが多い。

西原 にしばる ニシバル

ニシバルは、漢字表記だと西原だが、ほぼ東端に位置しており、ニシバルが西に位置する字は国頭だけである。というのも、「ニシ」は島むに(方言)で北を意味であり、ニシバルが北部にあることとも一致する。なお、島むにで西は「いり」であり、沖縄県の西表島(いりおもてじま)は、旧来の呼称を引き継ぐとともに、言語の共通点が感じられる。

玉城 たまじろ ニャ-トウ

ニャー(稲)トゥ(広場)で、「稲の乾燥や積み上げを行っていた広場」を意味するといわれる。小字名に西稲戸や北稲戸という地名があり、これらの「稲戸」が字名に昇格したと考えられる。玉城は、世之主の城があり、政治的中心地であった「内城」の東側に位置したことから、その外城の意味を込められた創作地名ではないかといわれる。

大城 おおじろ フ-グスク

フー(大)グスク(城)といわれるが、大城は、田平川・伊川良・石橋川という3つの川に取り囲まれており、その地理的特徴を指して「ホー(川)グスク(城)」と呼ばれたといわれる。それが漢字表記の際に、島の政治的中心地である内城により以前にあるという意味で「大城」を当てたのではないかと考えられている。

根折 ねおり ニュイ

ニ(高い嶺)ユイ(下り)で「嶺から下った地域」を意味し、嶺=越山から、北東部の坂を下りた場所にあったためと考えられる。共通の特徴を由来とする地名に、徳之島伊仙町検福に「根上(ニウイ)」がある。永嶺(ナガニ)や赤嶺(アーニ)の「ニ」と同じ由来。なお、島の基盤岩は「根折層」と呼ばれ、これは根折付近の岩石に由来する。

皆川 みながわ ニャ-グ

ニャー(稲)グ(川)で、「稲川」の意味といわれている。皆川には堰口という小字名があり、川を堰き止め用水として引き込んだと考えられる。玉城(ニャートゥ)のニャーも稲を意味し、水が豊富な地域であったと思われる。そのため、この一帯は米どころであり、水資源に乏しい字の塩などとの物々交換が行われていた。

古里 ふるさと サトウ

沖永良部島に限らず、村落の旧形態として山手の「里」と海岸の「金久」のニ部構造があった。古里(サトゥ)という名前は、前者を中心に発展したことが由来だといわれる。現地の小字に、「前古里」「前里」「名里」「兼久田」がある。この二部構造を継承する地名は日本各地にあり、かつての人の暮らしぶりに想いを馳せることができる。

内城 うちじろ ウチスク

内(ウチ)城(グスク)で、防衛・政治の要所として役割を果たしていたとされる。14~15世紀頃に島を治めていたと言い伝えられている人物「えらぶ世之主」を祀る世之主神社や、世之主が眠るとされる墓がある。内城は畑地帯の上原(ウイバル)と水田地帯の上城(ウイグスク)があった。城趾からの眺めは絶景。

後蘭 ごらん グラル

グラ(倉)ル(ノ)で、「倉のある場所」を意味するとされ、稲がよく穫れたことを物語っている。島で伝えられる豪族の一人「後蘭孫八(ぐらるまぐはち)」は築城の達人であったとされ、湿田を外堀として自らの城を築いたと言い伝えられている。なお、倭寇が治めた地名には、「ゴリア」「グリア」が付くため、その関連も思わせる。

谷山 たにやま イニャヒャ

イニャ(稲)ヒャ(傾斜地)で、「稲が実る傾斜地」を意味するといわれる。しかし、漢字表記の際に「田舎平」と当てられたため、住民から改称の動きがあり、1943年に当時の大島支庁長・谷村秀綱氏と和泊町長職務管掌(支庁から派遣された町長代理職)・登山明竜氏の姓から一字ずつ取って「谷山」と改称された。

永嶺 ながみね ナガニ

ナガ(永)二(嶺)で、「長い嶺」を意味するといわれる。越山から永嶺に連なる尾根の末端に位置することから名付けられたとされる。このような形状の地名を指して、徳之島は永根、喜界島は長嶺や長峯田などがある。当て字により、漢字表記から本来の由来が読み解けないものが少なくない中で、永嶺は表記と音が完全合致している。

瀬名 せな シニャ

シ(瀬=川の流れが速く浅い場所)ニャ(キナ=焼畑を行う場所)で、「瀬のある焼畑を行う場所」を意味するといわれる。与論島那間に同地名がある。ニャを「港」の意味とする説もあるが、同じキナから転じたとされる地名は、他に、内喜名(ネーチニャ)・手々知名(ティーチャ)・田皆(タンニャ)など島内各地で見られる。

仁志 にし ニシバル

西原(ニシバル)とは発音が異なるが、漢字表記に改められる際に、2地域の混同を避けるため頭二文字を取って「ニシ(仁志)」となった。めでたい意味を持つ佳字の組合わせ。もともと永嶺の西側だったが、島内からの移住者に拓かれ、1947年に仁志字として独立した。散在する民家は耕作地を開拓した名残り。

知名町の字名の旧名と由来(説)

知名 ちな ジンニャ

ヂンニャはキナに由来するといわれる。この「キナ」とは「焼畑を行う場所」を意味するという。ヂンニャは大山の南に位置しており、日当たりが良いことからも、島内でも最大規模の焼畑耕作地だったと思われる。島内に「内喜名」や「手々知名」などのキナを含む地名は多く、そうした場所は水資源の確保に苦労したと考えられる。

屋子母 やこも ヨーム

ヨー(岩屋。岩を利用した住居)ム(モー=草原)で、「岩屋のある広い草原」を意味するといわれる。小字名には「前原」や「後当」などが多く、「原」は原野を意味しており、「当」は広場を意味しており、広く、見晴らしのよい土地だと考えられる。また、「ヨー」を「屋子」としたのは、「子」を用い長音を表したと考えられる。

大津勘 おおつかん フーチカン

フーチ(大きい)カン(川)で、「大きな川」を意味するといわれる。現在、川は見られないが、山手の小字のホーヤマ(川山)からサクダマタ(佐久田俣)に至る谷間は、大きな河川が流れてできた跡であったと考えられる。その河川筋を挟む位置にある「徳時」の由来ともつながる。徳之島にも類似地名の大津川がある。

徳時 とくどき トゥドゥキ

轟音の轟(トドロキ)から名が付いたといわれる。かつて大山から南隣の大津勘との谷間を流れる川の音がゴウゴウと音が響き渡るほど流れていた当時の様子を思わせる。これは、大津勘の由来ともつながる。小字名にも、「徳時川俣」や「泉川」などの川を含むものがある。徳之島にも同じく轟木という地名がある。

住吉 すみよし シマジー

「住みよい場所」という意味を込めて、1950年に「住吉」に改称された。以前は「島尻(シマジー)」という名前で、国頭と対をなす地名だったが、漢字表記が地域住民に広まる中で反対意見が起こり、現在に至る。しかし、本来は「尻」ではなく「知」の意味で島主がいたという説も。徳之島伊仙町も1921年まで島尻村だった。

正名 まさな バ

正名の由来は、日本の農業振興を支えた旧薩摩藩士「前田正名」にちなむ。これは後世に付けられた名前であり、以前は「焼畑農業を行う場所」を意味する「バ」と呼ばれた。住吉字と水源地として暗川を共有したことからも当時の水にまつわる苦労を思わせる。漢字表記の際に不当な字が当てられ、大正初期から運動が起こり改称された。

田皆 たみな タンニャ

タ(田)ン(の)ニャ(キナ=焼畑をしていた場所)で、「水田と焼畑の地域」の意味といわれる。田皆は大山から集落にかけて「俣」の付く小字名が多い点から、谷が多かったと考えられるが、人が住む頃に川は枯渇しており、水田の水源は雨水だったと考えられる。「田皆と国頭の稲作が豊作の年は上納に事欠かなかった」と伝えられる。

下城 しもじろ ニシミ

下城・新城・上城の3つの字は、かつて「ニシミ」と呼ばれる一つの地域だった。ニシ(北)をミ(見る)で、島の北方を見張る番所だったといわれる。この監視対象は、琉球圏の島々を脅かした倭寇だったのではという説がある。世之主の重臣の一人といわれている「ニシミクニウチベーサ」の姓のニシミは、この地名から取ったものとされる。

上城 かみしろ ニシミ

上城・下城・新城の3つの字は、かつて「ニシミ」と呼ばれる一つの地域だった。ニシ(北)をミ(見る)で、島の北方を見張る番所だったといわれる。この監視対象は、琉球圏の島々を脅かした倭寇(海賊)だったのではという説がある。世之主の家臣の一人という伝説のある「ニシミクニウチベーサ」の姓のニシミは、この地名から取ったものとされる。

新城 しんじょう ニシミ、ニシミシンバル

新城・上城・下城の3つの字は、かつて「ニシミ」と呼ばれる一つの地域だった。ニシ(北)をミ(見る)で、島の北方を見張る番所だったといわれる。この監視対象は、琉球圏の島々を脅かした倭寇だったのではという説がある。かつては上城の中の「ニシミシンバル」という地域であり、1950年に現在の「新城」として独立した。

久志検 ぐしけん グシキヌ

グシ↓クシ(小さい丘・峠)キヌ(キナ=焼畑を行う場所)で、「小さい丘・峠にある焼畑をする場所」といわれる。クシ(越し)と解釈し、「丘陵を越えたところにある焼畑をする場所」という説もある。瀬利覚字の小字名に久志検、住吉字に久志検迫がある。また、収穫量を測る検地を行う役所があり、漢字表記の際に「検」の字を当てたという伝承がある。

赤嶺 あかみね アーニー

アー(田畑や野原)ニ(嶺)で、「田畑や野原のある嶺」。つまり、高地を意味するといわれる。島内においてほかに「ニ(嶺)」を含む字名は、ともに越山に由来する根折(ニュイ)や、永嶺(ナガニ)がある。なお、屋根の最も高いところも「ニ」と表現する。奄美大島笠利町に「赤嶺ヶ丘」、沖縄県那覇市に「赤嶺」と、同じ地名がある。

竿津 さおづ ソウジ

ソウズ(寒水)、つまり、「冷たい清水」を指す言葉が変化したものといわれる。琉球王国の歌集「おもろさうし」にも、湧き出る冷たい清水を「わくさうず」と表現している。もとは余多字の小字であり、1949年に分離、独立した。島内において、和・田皆・余多・屋者・芦清良などに同じ名前の小字が存在している。

余多 あまた アマタ

アマ(川向こう)タ(田んぼ)という意味といわれる。「田畑や野原の間にある田」という説もあるが、いずれにしろ、余多は字章(あざしょう)に稲穂が描かれるほど水に恵まれた土地だった。しかし、それは用水路を整備した以降のことであり、アマを「天」と解釈して、天水田(雨水を水源とする田んぼ)があったという説もある。

上平川 かみひらかわ ヒョー

ヒョーは「峠や嶺」を意味するとされる。本土でも峠を「ヒョー」「ヒヨ」と呼ぶ例が多く、江戸時代の国語辞典において上総(現在の千葉県)で嶺をヒヨと呼ぶとの記述がある。この語源は土地の境界を示す「標示・標木」に関連するとされ、721年に編さんされた常陸風土記に杭を標とする場面があり、「ヒョー」にに古語を見ることができる。

下平川 しもひらかわ ユシキャ

ユシ(良い)キャ(川)で、「よい川」を意味といわれる。川は島ムニ(方言)で「ホー」だが、それが「コー」↓「キャ」となったとされる。「吉川所」という小字があり、ここが字名に昇格したのではないか。下平川はもともとユシキャとシンビョウの2つの地名があり、ビョウ(平)とキャ(川)から一字ずつ取られ、上平川との対比から下平川となったと考えられる。

屋者 やじゃ ヤ-ジャ

ヤ(岩や石)ヂャ(川)で、「岩川」または「石川」の意味といわれる。ヂャは、もともと川を意味する「ホー」から、「コー」↓「キャ」↓「ヂャ」と多くの変遷を経ているといわれている。新城と玉城にも同じ「ヤジャ」という地名があり、共通して岩の下から湧き出る清水があり、その水源の呼び名が由来ではないかと考えられる。

芦清良 あしきょら アシキュラ

アシ(葦)キュラ(美しい)で、「繁茂する芦(水草)が美しい」という意味。湧水に恵まれ、1719年に地下を流れる水の穴を塞いでハニクダ(兼久田)地区まで水を引く水路開設工事が行われた。今も「江戸の地下ダム」として水路跡が見られるなど、先人たちの苦労を思わせる。なお、「キュラ」は、島の東側では「チュラ」と発声される傾向がある。

黒貫 くろぬき クヌギ

ク(小さい)ヌケ↓ヌギ(山抜け、山崩れの跡)で、「小さい山崩れの跡」という意味といわれる。瀬利覚と黒貫の間の山手、大山展望台の東側に「東山崎」と呼ばれる谷状の山崩れ跡があったが、現在では土地開発により消滅している。樹木のクヌギが染料として使われたという説もあるが、少なくとも亜熱帯には分布していない。

瀬利覚 せりかく ジッキョ

チッ↓ヂッ(地)キョ(川)で、「地中を流れる川」という意味。キョは「ホー」↓「コー」↓「キョ」と変化したもので、変遷はユシキャ(下平川)と共通する。しかし、漢字表記の「瀬利覚」は当て字の慣例に当てはまらない。沖縄県浦添市に「勢理客」と書いてジッチャクと読む地名があり、古名と漢字の読みのどちらも似ていることから関わりが考えられる。

小米 こごめ フグミ

フ(大きい)グミ↓グムイ(囲み)で、「大きな囲み」という意味。小米ではハシケ(沖合の船と島の間を往復する小型船)を係留する礁湖を指して「フウグムイ」と呼び、それが由来とされる。イソマグロの伝統的追い込み漁を指す「マハダグムイ」のグムイも同じく、囲みや礁湖を指す。戦後に米兵が集った繁華街↓リトルアメリカ↓小米は謬説(誤り)。

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