中部の世界遺産の街、ホイアン。かつて国際的な貿易港として栄え、四世紀前頃には日本人商人たちによる1,000人規模の日本人町があったといわれています。谷弥次郎兵衛はそんな商人のひとりで、亡くなってから370年経った今も彼の墓は守られています。逆に日本へ渡ったベトナム人もいたというお話。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2020/01/09
中部の世界遺産の街、ホイアン。かつて国際的な貿易港として栄え、四世紀前頃には日本人商人たちによる1,000人規模の日本人町があったといわれています。谷弥次郎兵衛はそんな商人のひとりで、亡くなってから370年経った今も彼の墓は守られています。逆に日本へ渡ったベトナム人もいたというお話。
ライター:ネルソン水嶋 公開日:2020/01/09
墓っていいですよね!
草の下に土と書いて「墓」、これは土葬が主流だった頃に時間が経って草が生えるほど忘れられるという意味があるそうです嘘です。
そもそも上は草ではなく莫だって。
目次
まぁ、そりゃ、仲のよろしい現代の日本とベトナムのこと。そういうこともあるかもしれない。
と思われるかもしれませんが…最近の話じゃなくてね!なんと四世紀前の話。場所はホイアン、ベトナム中部地方にある世界遺産の街。空港はないけれど、中央直轄市(政令指定都市的な)でもあるダナン市から南へすぐの場所にあり、観光地としても有名です。
ここはかつて国際的な貿易港として栄え、中国、オランダ、ポルトガル、そして日本といった国から商人たちが行き交い、さまざま取引が行われていました。言ってみれば出島のあった長崎のような街だったというワケです。日本人なら授業で習った朱印船という名前に聞き覚えがありますよね?江戸幕府から朱印状(海外渡航許可証)を得て交易を行った船、その行先のひとつがホイアンでした。
ホイアンでは日本から輸入された肥前焼きが発見されている。
交易が最盛期の頃には1,000人近くの日本人が住む日本人町があったともいわれ、当時の日本の人口は3,000万前後ですから、今でいうなら1,000人も4,000人の規模感。しかも海外へ行ける人は極々一部、もしかしたら当時海外で最大の日本人コミュニティだったかもしれません。と思ってタイのアユタヤの方を調べたら、こっちは1,000人から1,500人、下手すると8,000人という説も。マジか…マジか??8,000は盛ってるような。
ホイアンのカオラウという郷土料理は、伊勢うどんがルーツだと言われています。そのことについてはデイリーポータルZというサイトで書いているので、よかったら読んでくださいね。
で、話は戻り…もうお分かりでしょうけど、ベトナムにある日本人の墓とは、当時の日本人商人が眠ってるということなのであります。
ダナンからホイアンへ向かう途中、なが~いハイバーチュン通りには、両側が水田で囲まれた道があります。とくになにも聞かされなくても、良く晴れた日には、下は緑が広がり、上は青が広がり、「ええ景色やなぁ」と思われることだと思いますが…(写真のアングルは微妙だけども)。
その脇!
“Mr Tani Yajirobei’s tomb”!!
はい、墓の主の名は谷弥次郎兵衛さん。彼の詳細についてはまたのちほど。
ハイバーチュン通りから垂直、東の方角に目をやると、まだまだ先に続く道が。えっらい向こうにあるようですが、墓はすぐそこ。5年ほど前にはじめて行ったときは未舗装のあぜ道だったけど、今はこの通り美しく。そして、30メートルも歩けば(たぶん)…
ふたたび石碑。
ほとんど消えてしまって「ご注意」しか読めません。が、なにが書いてあるかというと、「ホイアンの墓参りの風習に習って参拝しましょう」的なこと。要するに敬意を持ってということなので、ふつうに振る舞う分にはなにも問題はないです。
その先にさらに細い小道、この先に墓があります。
季節にもよりますが、水田で米を育てているので稲穂が実ってるときれいでね~。この日は7月下旬でほぼ草っぱら状態で、空もほどよく晴れていて、緑と黄色のグラデーションが非常にうつくしい。
そんなさわやかさを伝えたくてgifにしましたが…速度を上げすぎて気色悪くなった。思わず身体をポーンと投げ出したくなるような草ベッドですが、下は泥水です。バシャーン!と落ちてパカーッと墓が開いてコラーッとMr Tani Yajirobeiが襲い掛かってくる、こともありませんが、風邪を引くから控えましょう。
これだけ景色が抜けていると眺めているだけで見ごたえあります。
これは9月の写真。稲穂が刈られたあとで、おじさんが網漁(?)をしていました。米を獲ったあとには魚が捕れる、まるでドラえもんのひみつ道具みたいな利便性ですが、どうもそういうもんらしいです。
ちなみにこのおじさん、「見ろ!見ろ!」みたいな感じですごく積極的に話しかけてきたものの、こちらは墓を見に来たもんなのでちょこちょこごめんねって感じでスルー。もしかしたら彼に応えることが石碑に刻まれていたホイアンの風習だったのかもしれません。んなこたぁない。
水牛もいます。いつ行ってもいるので、あそこが彼のホームらしい。
で、でー!
これがその墓であります。
谷弥次郎兵衛は、前述の通り、ホイアンが国際貿易港として栄えた時代に生きた商人。墓といっても日本のメジャーな形とは異なり、亀甲墓と呼ばれる沖縄でよく見るタイプ。これはもともと中国南部が起源と言われているので、当時のホイアンに対する中国の影響が感じられますね。
で、ドラマの主役になるような偉人の墓であれば、フィクションも踏まえつつさまざまな想像がふくらむけれど、名前だけ分かったところでそれだけではなんともリアクションを取りづらい…と思われている方がいるなら、ぜひぜひ見てほしいところがあります。
それは墓の囲い、向かって右側。
日本語、英語、フランス語(フランス統治時代もあったから)で記載されたこの石碑には、墓主のストーリーが刻まれています。ホイアンに住む日本人商人だった谷弥次郎兵衛。しかし、江戸幕府の鎖国政策に伴って在外日本人への帰国の命が下され、一度は船に乗って帰ろうとしたものの、現地で別れた恋人が忘れられずホイアンに戻る途中で倒れた。とのこと。それが1647年で、この墓がつくられたそうです。
説明書きには「日本の貿易商人と市民との関係が大変友好的であった事の証である」とありますが、まったくその通りで、今は水田になっているこの土地が当時どんな状態だったのかはわかりませんが、ひらけた場所でひとつ、しかし大きな墓が、現在に至るまで370年以上に渡って守られているあたり、少なくとも谷弥次郎兵衛が人望を集めた人であったことは違いないでしょう。
余談ですが、鎖国後にもホイアン現地に留まった日本人は200人いると言われています。ということは、きっと今でも彼らの子孫にあたる人がこの街に住んでいるのではないでしょうか。まぁ、それを言い出すと日本でも同じようなことが言えるワケだけど。今の国って近世の線引きだしねぇ。
個人的にずっと気になっていることは、この恋人はそのあとどうなったのか?ということ。そもそもその名前すらも聞いたことがないのですが、こうして谷さんの悲哀の恋物語が語り継がれる人なら、恋人の名前や、子どもがいなかったとしてもゆかりある家系が残っていないのかなと思うんですよね。少なくともこのお墓の墓守の方はいるはずなので、今度現地で調べてみたいと思います。
なんにしろ、青空の下の水田はそこにいるだけで居心地よいものです。墓前に手を合わせたあと、なんとなくただそこにぼーっと立つだけのこともしばしば。ホイアン市街地からは郊外にあるので、めったに人が来ません。この谷弥次郎兵衛の墓を目印としてぶらりと散歩するだけでも価値がありますよ。
と、ここまではホイアンに生きた日本人の話でしたが、その逆のケースということで長崎に生きたベトナム人の話を最後にちょっとだけ。これはこれでおもしろいんだけど、谷弥次郎兵衛に比べてあまり知られていないんですよね(長崎では祭りで語り継がれているから知名度があるだろうけど)。
前述の通り、朱印船が出る港は長崎でした。ホイアンに日本人が渡ったと同時に、長崎にもベトナム人が渡っていたというワケです。それがひとりか複数かはわかりませんが、少なくともそのひとりがアニオー姫。なぜ姫?というと、文字通り本当にお姫様だったから。
アニオー姫は当時のホイアンである安南国の、国王の外戚にあたる娘で、つまり王族。そこで、肥後熊本出身の武士ながらも、朱印船に乗り込んで富を築いた荒木宗太郎と出会い、ふたりで長崎に渡りました。
長崎駅にある再現されたご朱印船。朱印船に乗ってふたりが帰ってくる様子は、長崎で毎年10月7,8,9日に行われる「長崎くんち」において、7年に1度の演目「ご朱印船」で再現されます。
しかし実は、アニヨー姫の名前は王加久(わかく)。どうして違うの?というと、ここからがおもしろいんですが、旦那さんである荒木宗太郎のことを「Anh Ơi」と呼んだから。ベトナムに住む方ならお分かりの通り、これは言ってみれば「ねぇお兄さん」、ちょっと目上(アバウトですが、ひと回りいかないくらい)の男性にかける呼びかけの言葉です。
ある意味では親しみを込めて、「宗太郎さん」ではなく「お兄さん」と呼んでいたワケですが、それが長崎の街の人たちからは「いつもアニオーと呼んでいる」ことから、また彼らからも親しみを込めて「アニオーさん」と呼ばれ、それゆえに「アニオー姫」として語られた。という。
少なくとも私がカタカナに起こすなら「Anh Ơi」は「アニョイ」だったり「アノイ」だったりするのですが、そこは地域性に時代性もあり、当時の安南国では「アニオー」だったかもしれないし、長崎の街の人がそう表現した、あるいは書き言葉として残る上で変化していった可能性もあります。いずれにしろ400年近く前を生きた人の名前の背景が、自分の経験から体験的に分かるというのは、なんともおもしろい感覚です。
なお、荒木宗太郎と谷弥次郎兵衛の没年ははそれぞれ1636年と1647年で、前者は長崎で亡くなっているので、同時代のホイアンはギリギリ生きてはいない可能性の方が高そう。なんか、谷さんにしろ、アニオー姫にしろ、ドラマになったらおもしろそうだよなぁ。
という、ホイアンに生きた日本人と、長崎に生きたベトナム人のお話でした。
谷弥次郎兵衛の墓
住所:Hai Bà Trưng, Cẩm Sơn, Hội An, Quảng Nam